2011年7月1日金曜日

127時間

  2011年になっても未だに人類は、人生において何が一番大事かという重要な問題について、ドストエフスキーやソクラテスといった先人に頼っているように思える。いや、もうカート・ヴォネガットがいうように、ドストエフスキーでさえ不十分であるのかもしれない。
 私たち日本人、そして世界中の人々の暮らしをも変えるような事件が3月11日に起きた。これはどんな偉大な文学者でも説得できないような連中をも転向させることができたか。残念ながら、高度経済成長という父を持つ老兵たちは、黙って去ることもなく、自分たちの権益を守ることに必死なようだ。
 悲しいかな、人間というのは災厄が近くで起きても、それが自分の身に直接降りかからなければ、根本から変わることはないのだ。結局は対岸の火事。最初は少しだけ騒いで、何とかしなきゃなと思うのだろうが、時の経過と共にそんなことも忘れてしまう。元の木阿弥。
 『127時間』の主人公アーロンは向こう見ずな人間で、週末に誰に行き先を告げることもなく、ブルージョンキャニオンへと向かう。広大な自然の中で、無謀な行為をして楽しむ彼は、足を滑らせて谷底に落下。その時彼と一緒に落ちた巨石が、運悪く彼の右腕を挟んでしまう。身動きの取れなくなったアーロンはどうするのか?
 だいたいこんな筋書きの実際にあった事件である。冒頭とラストを除く物語のほとんどは、谷底で苦しむアーロンの葛藤に費やされる。この地味な物語を、1時間30分観客を釘づけにするエンターテイメントにできる監督はそうそういないだろう。それをできてしまうのが、ダニー・ボイルなのである。
 かれの凄さはオープニングの疾走感にある。『トレインスポッティング』ではイギーポップの流れる中をユアンが全速力で駆け抜けるシーンで始まる。この映画でも三分割された画がそれぞれ違った場面を映し出し、そこにエスニックなエレクトロからパンク調の曲、はたまたアコースティックギターが合わさってまるで玉虫のごとく、映像と音楽が多彩に変化していく。
 岩に腕を挟まれた瞬間にタイトルが出るのだが、これは個人的にニンマリした。とにかく飽きさせないための工夫がたくさん詰め込まれている。さすがダニー。少し音楽でごまかしていないかな?と思うこともあったが、ソフィア・コッポラほどいやらしくもない。ギリギリのラインだ。
 アーロンの人間としての変化も自然に描かれている。最初は岩に当り散らし、なんで俺がこんな目に会わなきゃいけないんだと、外側にある事物に責任を押し付ける。だが人生を振り返る中で徐々に彼は、この岩は自分を待っていたんだと思うようになる。自分の人生は、結局この岩に行きつく運命であったというのだ。宿命論といえば簡単だが、彼の場合のそれは、今までの独りよがりの人生を改めて、自分に非があることを認めた瞬間なのだ。
 終盤で彼は、とうとう自分の腕を切断することを決意する。そのとき、彼に見えるのは大切な家族、そして幼いころの自分自身の姿である。自分は独りで生きているのではない、両親に育てられた、人に支えられて生きてきた人間であることを、幼い自分の幸せな顔から悟るのである。
 腕を切断するシーンはスプラッター映画よりもよっぽど痛々しい。だがこの最大のヤマを乗り越えた瞬間は、何とも言えない高揚感がこみ上げてくる。彼は勝ったのだ、それも彼自身のためではなく、彼の大切な人たちのために。
 下手な恋愛映画や戦争ドラマよりも、人はなぜ生きるのか?意味のある人生とは何か?という永遠のテーマに対して、過程式も含めたはっきりとした解答を示している映画である。