2011年9月28日水曜日

意味なんかいらね

 僕が最近よく思うことは、物事を始めるにあたっての動機や理由なんかどうでもよいということだ。実は、こういう思いに至るまでにかなり悩んだ。およそ2年くらいにわたって、この「理由」や「動機」というやつは、僕の頭の上に時々止まってはうるさく鳴いて僕を困らせていた。
 バイト先で出会ったバンドマンがいた。彼は大学在学中から既にミュージシャンになることを決めていたのだと、何だか自慢げ気に言ってきたことがある。今思い出したが、もう一人いたバンドマンも、他の仲間が進路に悩んでいるときに自分はこの道一本でいくことを決めていたと、これまた誇らしげに語っていた。
 この2人のバンドマンとの会話はさりげないものだったが、僕には未だに彼らの得意顔が頭に張り付いている。最初は羨ましいと思ったし、自分は未だに態度を決めかねている状態なので恥ずかしい気持ちにもなった。でも何だか腑に落ちない部分があって、それがだんだん大きくなってきて、少しずつ腹も立ってきてた。得意顔をぶん殴りたいと思った。理由はわからない。
 彼らは特権を持ってるかのように振る舞っていた。明確な理由や動機が最初からあるということに。ただ今の僕はそういう人を見て、腹も立てないし気にもしないだろう。興味がないからだ。彼らは本当に理由があると信じているのだろうけど。そんなものは人間が考え出した実存主義、構造主義、ヒューマニズムみたいな気持の悪い観念だということに気付いていない。
 僕はこの世界に意味があって存在するものなどないと思っている。ただ確実なのは、僕はただ存在していて、世界もただそこにあるということ。そこには喜劇も悲劇もない。これは実存主義のようなロマンティックなものではない。2人のバンドマンは意味を信じ、自分の存在にもいちいち意味を見出さなければ生きていけないようなケチくさい人間なんだろう。そして挙句の果てには自分を特別だと思い始めるのだ。
 先日、僕は友人に連れられて科学館に行ってきた。理科系の知識に乏しい僕はすぐに疲れてしまって、タッチパネルの画面があるコーナーに腰かけた。そこでは科学者たちの名前が表示されていて、タッチするとその人のインタビューが見れるのだ。僕は唯一知っている養老孟司の名前のところに触れた。すると項目が出てきて、その中で彼が科学者になったきっかけという項目に目が止まった。ある確信を持って僕はそれを選んだ。
 彼はぼそぼそと語り始めた。僕は小さい時から体が弱く、愛想も悪いので大学院に行くしかなかった。医学の道に進んだのも親が医者だったから。でも結局医者にはなれなかった。僕は消去法でこの道を選んだんです。とほほ笑んだ。
 何でもない数分のインタビューであったが、僕にはとてもショッキングであって、同時にとても安心した。彼は観念を信じない、決して変な意味づけをしない、頭ではなく胸の奥底で考える人だ。彼は世界をあるがままに見ようとする人間だ。僕は何にでも意味を付けて嬉しがる人間を信じない。微笑しながら淡々と話す人を信じる。そこには伝説や事件は特にない。つまらないと人は言うかもしれないが、僕はここに自由を見る。意味や動機をはく奪されてただ何かに強制されて存在している人間の姿に。