2012年3月27日火曜日

ドラゴンタトゥーの女

  世界を変えることはできないと嘆いている若者がいる一方で、ドラゴンタトゥーの女の主人公リズベットと『ソーシャルネットワーク』のザッカーバーグは、正義と悪という二項対立の支配する世界を相手に、全く別の世界を築くことで対抗する。
彼らは確かに、そびえる巨大な悪、トムヨークが歌い、ハルキムラカミが書くような得体の知れない巨大な、それでいて姿の見えないものに対して、勝利を収めた。半ば強引な方法で。しかし、ここで言う世界とは目の前に在る世界とは同義ではない。現実の中でリズベットはその中ではひたすら搾取され、抑圧されている。ただ彼女もザッカーバーグもそいつらにケツを振らないでいられる場所を知っている。それがネット世界だ。
ネット世界はこれまたひとつの別の世界を形作る道具だ。それはリズベットやザッカーバーグが縦横無尽に空を飛ぶ夢の世界だ。彼らはその中で彼ら自身の物語を構築していく。そしてそれは現実の世界に対して拮抗するほどの力を持つ。ということは、彼らは現実世界でやはり世界に勝利しているとは言えないのだ。世界に真っ向からぶつかれば、やはりリズベットはレイプされるし、ザッカーバーグも裁判で不利な状況に持ち込まれもする。
彼らは決して世界を変えることはできない。ただ、彼らは自分たちの世界を作ることはできる。その中で彼らは勝利を収めることができる。ここにはペシミスティックな感情はない。現実世界に対峙した時に、彼らが屈服することで生きていく以外の方法を見つけるためにそうせざるを得なかったのだ。
彼らは2人とも愛を得られない。愛とは他人との摩擦によってしか、異物との生の接触によってしか生まれないものだ。だから、彼らは自分の世界を作り上げることができたとしても、結局そこには自分しかいないわけで、他者を必要とする「愛」を得ることができないのかもしれない。かといって、他人に対して奉仕するような愛が救済になるとは思えない。結局は人は何かを失うことで何かを得るという『市民ケーン』や『エデンの東』に出てくる古いアメリカンヒーローの哀愁漂う姿が現れる。かつてヘミングウェイはガートルード・スタインに「あなたは失われた世代よ。」といわれた。ヘミングウェイは「どの世代だって何かを失っているのだ。」と反発心を抱いたという。失うことは何かを欠くということではない、それは得ることと同じといってもよいと僕は思う。
デヴィットフィンチャーはこの複雑な世界に対して明確な回答を用意しているわけではない。そこがポイントである。正義と悪、世界と個人、といった二項対立ではもうこの世界を理解することは不可能だ、何が正解で何が間違いなのか、それは多角的に降り注ぐ視線の前に全く意味を成さなくなる。そういった9.11以降の価値観を踏まえている。しかも1950年代のアメリカンヒーローが辿る悲劇的な愛の物語と地続きであることも忘れない。新しいヒーローの姿がおぼろげに、しかし徐々に明瞭さを帯びて見えてこないだろうか。