2012年9月29日土曜日

9月23日カフェズミのイベント

 9月23日に吉祥寺のCAFE ZUMIにて、翻訳家の小山景子さんと<じゃがたら そして篠田昌巳 トーク&リスニング> というイベントを行いました。僕自身はちょっと話したくらいなんですけど、とても良い経験をさせてもらい感謝しています。当日の配布資料用に文章を書いたので転載します。
 
 背反する魂
 1971年にジムモリソンはバスタブの中で死んだ。かれはBreak on through the other sideと叫んでいたように、常に死を、知覚の埃を全て吹きはらした完璧な生を求めていたのだと思う。ただドラッグでパラダイスへ向かおうとした60年代が終了し、70年代という醒めた、ドラッグの後遺症に悩まされる時代が始まり、77年に制作されたsuicideのアルバムなどを聞くと、ここにはもうどこか別の場所へ行こう、新しい世界を創造しようとする意志は見えない。ただこの場所で全てを破壊しつくす、どこか冷たい感情がある気がする。
 60年代のジムモリソン、シドバレット、ロッキーエリクソンら狂人は消えて、70年代には醒めた時代の狂気が蔓延しはじめる。シド・ヴィシャスが死んで、ジョン・ライドンがPILとして生き残ったのは象徴的な出来事だ。公私ともにロックスターであった人物たちがだんだんいなくなり、音楽が感覚的なものから、もっと頭で考えることを重視するようになって、トーキングヘッズやポップグループのような知的なバンドが出てくる。
 60年代から70年代初頭の狂気は体制の外にあり、避けるべきもの、根絶されるべき社会の敵とされていたと思う。イージーライダーはトラックの運転手に殺されたのだ。だが70年代後半には、その狂気はとうとう体制の中に組み入れられた。狂気は商売になると気づいたのだろう。デヴィッド・バーンはonce in a life timepvの中で奇妙なダンスを披露する。まるで狂人のようだ。そう、決して彼は狂人ではない。ただシェイクスピアの演劇に出てくるような賢い道化を演じているだけだ。
 僕はニューウェイヴとして括られた音楽を、全くさっぱりとした気分で聴く。それは醒めているからだと思う。潜在意識の底に潜るような、瞑想的な音楽ではない。じゃがたらは1979年に結成されている。セックスピストルズが解散したのは1978年で、まさにニューウェイヴ真っただ中に生まれたのだ。
 最初に聴いたとき、アフロビートを基調としているところからニューウェイブとの親和性を感じた。でも僕の気になったのは、江戸アケミという人物である。風貌も言葉も頭にこびりついて離れない。音は70年代かもしれないが、僕は江戸アケミがまるで60年代の亡霊に見えた。ここではまだ狂気が生きていると感じた。しかし、60年代の音が全てを解かしていくような感覚にはならない。というのも、ここには60年代と70年代の相克が見られる気がする。それは単純に音楽性や時代性の対立という外側のものだけではなくて、江戸アケミの内側に既に背反することを宿命づけるものがあるのではと思わせる。「3つ数える前に天国へ。」と歌う彼の天国とは光の向こう側であると言い切れない、ジム・モリソンがother sideへと突き抜けようとするときに、かれの足を引っ張るものはない、しかし江戸アケミの周りにはいつも深淵が広がっているように思える。なんだかぞっとするものがある。
  70年代後期に突入して、多様でありながらも、どんどん一方向のスピードと知性に邁進していくニューウェイヴは、常に新しいショックを求める都市生活者に似ている。その雑踏の中で、江戸アケミは完璧な道化となることができなかった。かれは時代を駆け抜けたというより、常に時代に身を引き裂かれながら生きた人間で、自分の中でも背反するものを抱え、もだえ苦しみながら死んだ人だと僕は勝手に思ってる。
 竹内 翔