2013年6月17日月曜日

After the gold rush シャムキャッツやgrimesを通して考えたこと。


 この国の人々は「現実」や「普通」に憧れている、と某缶コーヒーCM風に言ってみる。あるフリーターはこういった。「アタシも普通に結婚して、子供2人くらい生んで、たまには海外旅行に行って、とかそんな「現実」的な生活したいわ。」そして、憲法改正派はこういった。「自分の国を守る「普通」の国になるために軍隊を持つのだ!」
 普通、現実的であることはもちろん重要だと思う。しかし、かれらのいう普通とは何なのか。人口が減少し高齢者ばかりになっていく国で、伝統的な結婚制度、親世代の生活水準に憧れる20代、憲法9条がもたらした戦後60年以上に渡る平和と経済的な繁栄を無視する政治家。共通して言えるのは、みんな幻を見ていて現状から目を逸らそうとしているということじゃないか。
 アベノミクス。嫌いな言葉だ。株価が上がった。円安になった。僕にはよくわからない。それで何が良くなったんだ?被災地のニュースは聞かれなくなった。安倍首相は垂れ下がったニヤケ面で長嶋茂雄と松井秀喜に黄金のバットを送り、猪瀬知事はトルコに暴言を吐いてからもオリンピックを手に入れようとまだ思っている。日本全体が明るいニュースを望んでいる。だが太宰治はこういっていた。「平家は明るい。明るさは滅びの姿ではないか」
 僕らの「普通」を変えていかないか?そろそろ現状を確認しないか?強がるのはやめよう。まあ、このグローバル社会で世界を股にかけて活躍できる人間には関係ない話かもしれないが、どんどん経済的にも政治的にも落ちていく日本で暮らすしかない弱い僕は、もう過去の成功物語に固執するのはやめようと思う。
 
 先日、村上春樹の新刊が発売された。予約分だけでものすごい数をたたき出したらしい。僕は最近の村上春樹は小説よりも、自伝的な作品が2つ文庫化されたことに着目している。インタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』と彼のもうひとつの顔であるランナーとしての記録『走ることについて語るときに僕の語ること』である。この2つの著書のなかで彼は自らの創作活動の内面を吐露している。若干ロマンティックではあるが、彼は小説を書くときに地下室の秘密の扉を開けるのだといったことや、ランニングによって日々の小説を書くための体力を養い、マラソンを走ることで文章を書くために必要な根気と孤独を体に染み込ませるといったことだ。これらは非常に面白い村上春樹の作家論であり、彼の小説に出てくる主人公の物語そのもののような気がした。
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』といった代表作の主人公は、大切なひとを理不尽に失い、単独で暗闇にもぐって巨大な悪と戦い、自らの力で平穏を獲得する。ひとりの人物が孤独に耐え、不条理な現実に触れるなかで成長していく個人的な物語である。これは自らの理性によって世界を切り開いていくヘーゲル以降の近代的自我と一致する。
 これはアメリカの映画や文学作品の伝統的なプロットである。江藤淳の『アメリカと私』にもあるが、アメリカ人は祖国イギリスを飛び出し、アメリカ大陸という荒れ果てた荒野にたどり着く。母である大地は息子を拒否によって迎えたのだ。母に拒否された息子は、自立することを余儀なくされ、ひとり荒れ果てた地を自分の足で進んでいかなければならない。逆境を自らの手で切り開いていく強い男の成長物語は、アメリカ人がアメリカ人になるための不可欠な通過儀礼だ。
 村上春樹が幼少期からアメリカ文学に精通していたこと、大学の卒業論文はニューシネマについて書いたことなどは良く知られている話だ。さらに彼の大学時代は学生運動がピークであった時期で、マルクスの『共産主義宣言』にみられるように個人の力の団結によって世の中を変えていこうとする若者が多くいた。しかし村上自身はそういったことから背を向け、ジャズ喫茶の経営という独立者としての道を歩み始める。まるでアメリカ大陸の荒れ果てた荒野を進む男のように。
 村上春樹はその世界を席巻するほどの驚異的な読者の数、トマスピンチョンほどではないにしろ、メディアにはほとんど顔を出さない秘密主義的な印象によって、あたかも全く巨大な現象となっていた。そこに輪郭を与えたのがさきに挙げた自伝的2作品と言える。僕は彼自身が彼の物語に出てくる主人公と同様に自立した個人だと申し上げたが、もうひとつ村上春樹はまた非常に勤勉で地味であり、およそ天才的な作家としての資質を感じさせないような男だということが強く感じられた。彼は毎朝4時に目を覚まして、午前中にかけて執筆活動をする。午後は10kmのランニングをし、街にレコードを漁りに出かけ、夜7時には就寝してしまう。彼の生活はこの繰り返しであるという。世界で最も稼いでいる1人であろう芸術家の暮らしとは思えないほど質素である。彼の唯一の欲望はより良い小説を書くというこの一点に集約されているようなのだ。
 
 バブル真っただ中の1987年『ノルウェイの森』が発売される。当時の気分のなかでこの小説がどのように読まれたのか、ひいては村上春樹という作家の作品が全体的にどのように読まれていたのかはわからないが、村上春樹を批判する人たちがよく使う「気取った雰囲気」というやつがバブルというこれまた気どっていて狂った時代の空気とマッチングしていて多くの大衆の自尊心を満たしていたのではないかと僕は想像する。
 バブル崩壊後に生まれた現在20代中頃までの若者は、日本の高度経済成長期を知らず、衰退していく日本のなかで育っている。2013年現在、政府はTPPの参加を表明し、憲法改正を目標に掲げている。TPPに参加することで国内の農林水産物の4割が消滅するという政府試算もあり、日本の産業は厳しい自由競争をさらに迫られることになる。憲法は国民を縛り上げる法ではなく、国家が暴走しないための法である。その前提を忘れている自民党の改憲案には、基本的人権を排除するような条項が盛り込まれている。
 こういったことから日本政府が明らかに弱者を切り捨てようとしていることがわかると思う。大企業であるユニクロの柳井社長が「年収100万円の社会も仕方がない」という発言をしたことからも、社会全体に弱肉強食の論理を認めるような空気が出来上がってきている。
 国民国家が解体しはじめた歴史的な転換点に差し掛かった日本においても、村上春樹は若い世代に親しまれている。だがそれは「気取った雰囲気」になれるからというわけではないような気がする。バブル崩壊後に2つの印象的な事件が起こる。95年の阪神・淡路大震災、そして97年の地下鉄サリン事件である。村上春樹はこのあとにサリン事件の被害者を取材したノンフィクション『アフターダーク』、さらに震災を題材にした『神の子どもたちはみな踊る』を上梓する。
 後者の作品では村上春樹の文体に変化が生じている。三人称で書かれているのである。村上春樹の主人公は「僕」ではなくなったのだ。それほどに2つの大事件は彼の心に大きな衝撃を与えたのだろう。これはヘーゲルの近代的自我、個人の価値というものが、ナチスによるユダヤ人虐殺によって脆くも崩れ去ったときを僕に思い起こさせる。村上は三人称を採用することで、僕という価値をもっと広範な他者との繋がりのなかで見るような視点を手に入れたのではないだろうか。彼の処女作である『風の歌を聴け』には、主人公の親友である鼠が自分の「痛み」について吐露する場面がある。しかし、主人公の僕は彼の「痛み」を相対化してしまう。鼠はその後、主人公の前から姿を消す。このときの村上には、名もなき弱者たちに対する視線がなかったのかもしれない。
 独りで巨大な悪に立ち向かうのは難しい。『俺たちに明日はない』のボニーとクライドみたいに蜂の巣にされるだけ。いや、もう巨大な悪ってやつもいないのかもしれない。僕らにはニューシネマのヒーローのように雄々しく死ぬことはできないし、かといって権力者になることも難しいだろう。そんなもんにはなりたくないけど。
 アメリカ式の個人主義的英雄伝を現在の日本でやったらどうなるだろう?イギリスの映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』を見たことがあるだろうか。これはアメリカのゾンビ映画に憧れるエドガーライト監督が現在のイギリスでゾンビ映画を撮ってみたもの。基本はコメディーなのだが、残酷描写はリアルで、登場人物たちもその辺にいそうな人たちで、サイモン・ペッグが演じる主人公は家電量販店で働く29歳の冴えないやつ、その友だちを演じるニック・フロストはデブのニート。ゲームばっかりやっている。そんな2人がショッピングモールではなく、小さなパブに篭城してゾンビと死闘を繰り広げる。ラストシーンはとても印象的だ。ゾンビ化してしまった友人をサイモン・ペッグは殺すのではなく、飼ってしまうのだ!そして一緒にゲームをやっているところで映画は終わる。。。
 サイモン・ペッグとニック・フロストはこの後にも『ホットファズ』、『宇宙人ポール』でオタクコンビを演じている。これらの作品のなかで、彼らは巻き込まれる形で戦い、勝利を収めた彼らはまた元の日常に戻っていくのである。
彼らは何かを得るために戦うというよりは、この小さな日常を守るために戦う。だから、2人にとってお金とか地位はどうでもいい。ただこの友情が続く平穏な暮らしがあればいいのだ。
 
 日本の若者たちはどのような感情を現在の状況で抱いているのだろうか。4人組ロックバンド、シャムキャッツの曲「なんだかやれそう」の歌詞にこんなのがある。

 “どうしたって沈んでいく船であいつはまだ宝気遣ってニヤニヤしてる
 なんとなくやれそうなんとなくいけそう君とならいけそう”
 
 “沈んでいく”を日本と置き換えてみる。“宝”はその沈みゆく船にある金や地位であり、“あいつ”はそれにしがみつく不安な大人であり、まだ“宝”があると信じている不安な子供たちである。そして、シャムキャッツはそんな現世的な宝をむさぼる人たちを突き放して、“なんとなくやれそう”と歌うのだ。なぜ何となくやれそうなのか?彼らは独りではないからだ。小さな価値観を共有するかけがえのない4人の仲間がいるから、“なんとなくやれそう”なのだ。彼らは沈みゆく日本という大きな船から降り、小さなイカダで新たな宝島を探す。
 僕は前回『ガンモ』という映画のワンシーンを紹介した。ベッドで跳ね回る少女たちのシーンだ。彼女たちは荒れ果てたアメリカ郊外の街で育ち、見ている側には何の希望も抱かせないような街で楽しそうに跳ね回り続ける。彼女たちが視線の先に見ているのは金とか地位といった古い理想ではなく、もっと現実的な小規模なコミュニティーのなかでの毎日の充足なのではないか。それは親世代に押し付けられた理想と現実ではなく、自分たちで見つけた新しい理想であり現実である。
 常に現実の先に理想がある。「現実を見ろよ。」という人間がいう「現実」とは理想から切り離された死んだ現実である。経済成長から見放され、どんどん高齢化が進む国において、理想が生まれることがおかしい、全くのやせ我慢だという人間がいるかもしれない。ただ、そういった人間が見ている理想は、結局自分で獲得した現実から伸びた理想ではなく、誰か他の大人たちが作り上げた現実を元にした理想なのだ。理想はどんな過酷な現実を前にしても消えることはない。現実が過酷であればあるほど、それは強いものになる。
 また政治の話に戻るが、例えば自衛隊という軍隊を持っている日本は、憲法から9条を消さなければならない。それは矛盾している。こんな風にいう人がいる。彼は憲法が国家の理想を謳ったものだということを知らないのだ。そして彼は同じように人生においても理想は常に現実の下に置かなければならないと信じている。
 確かに理想が高すぎて、現実を忘れた人間は死ぬしかない。それは例えば、空を飛べると信じた男が実際に空を飛ぼうとして死ぬようなものだ。だが、現実に合わせて理想を殺すことはないのだ。現実にフィットしながらも、理想を追う。それが理想を実現するための唯一の方法である。だから、現実がどんなにダメでも理想は掲げ続けなければならない。
 国が沈んでいき今までの成長物語が通用しなくなったことで新たな理想を追い求めることには当然確信が持てないと思う。そういった状況下で必要なのは、確かなヴィジョンではなく、シャムキャッツがいうような「なんとなくやれそう」だという漠然とした自信である。新たな理想はアメリカ式の近代的自我が成し遂げることができるような代物ではなく、同じ理想を共有する複数人の力を合わせることで成し遂げていくものではないか。実際シャムキャッツには「アメリカ」というずばりな曲があるのだが、その歌詞の冒頭はこのように始まる。
 
 “とっても行きたい
 ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカとか
 メキシコとかトルコとか
 実はフランスで食べたことないもの君と食べたい”

 海外に対する憧れが歌われていて、これこそ古い理想を追いかけているように思える。しかしここで重要なのは最後の“君と食べたい”である。その後にも、“改札口で戸惑う”とき、“天井を仰いだ”とき、いつも頭にあるのは“君”のことである。独りで何かをしたいとは思っていない。さらに冒頭の海外の地名は後半ではもっと曖昧なものに変わる。

 “君と行きたい
 ここから見えない場所でさ
 まちくたびれた人たち誘って
 待ちに待った景色を見よう”

 ここでは具体的な地名はなく、ただ“ここから見えない場所”、“待ちに待った景色”という抽象的な場所が歌われる。そしてその場所に一緒に行くのはもはや“君”だけではなく、“まちくたびれた人たち”という同じ理想を持つ顔の見えない人たちだ。新しい漠然とした理想の地へ行くのは独りではない。
 
  前回紹介したジョナサン・リッチマンは「Rockin’ shopping center」で幻想のショッピングモールについて歌っている。

 “俺はショッピングセンターに行った。知らない州の
 知らない家具や知らない匂い
 知らないブランド、知らないチェーン店
 果物がなる平らな土地に見たこともない奇妙なビルが立ち並んでる
 さあ、ロックしよう
 さあ、行こうぜ”
 
 ここはどこだろう。リッチマンはどこにも無い場所を歌うが、理想の場所ではなく、うら寂しいショッピングセンターだ。リッチマンは独りでさまよい、疲れて座り込んでしまう。
 ショッッピングセンターは70年代後半のアメリカに登場した。全てのものが揃った巨大なショッピングセンターは瞬く間にアメリカ中に広がり、人々は週末なるととりあえずそこに集まった。その結果、地元の個人商店は潰れ、街は荒廃した。チェーン店だらけになり、どこに行っても同じような店しか無い、似たような街が出来上がってしまった。
 生気のないショッピングセンターで“さあ、ロックしよう”と歌うリッチマンはなんとも孤独である。彼以外の仲間の姿は見えない。このとき、アメリカの個人主義による理想は終焉したのかもしれない。巨大で個性のないショッピングモールのなかで彷徨うリッチマンは、急速に失われていくアメリカンドリームを象徴しているように見える。この後、彼はモダンラヴァーズを抜けて独りで道を歩み始める。それはシャムキャッツが向かうような新たな理想に向けた旅路ではなく、現実に存在しない過去の理想を守るための孤独な戦いであるように思える。

 近代的自我を超える動きとして注目したいのが、昨今のアイドルグループの隆盛である。彼女らの特徴は、個人ではどうしても弱いがグループ内でその力が最大限に発揮されるといったことが挙げられる。AKBグループが筆頭に挙げられるが、彼女たちの理想を掲げるのは大人たちであり、「卒業」という強制的な自立を促すシステムがあることで結局は旧式のアイドルグループの枠から逃れられていないという問題がある。しかし、「卒業」が自発的なもので、グループの成員が流動的である緩やかな共同体であるならばそれは新たな共同体の形を形成する可能性がある。もうひとつの筆頭であるももいろクローバーZは、卒業というシステムはとっていない。彼女たちはAKBとは違って、より少人数でありメンバー間の結びつきが強い。流動性のない組織であるため、これも古い共同体の形であるように見えるが、彼女たちは「モノノフ」という従来のオタクだけではなく、多様なファン層を獲得することに成功している。このファンも含めたももいろクローバーzという組織は、一方では絆が強く、一方では流動的で緩い矛盾した要素を抱え込む新しい共同体を形成しているのかもしれない。
 
 ここまで書いていきて気づいた。理想論を振りかざしすぎて、僕は自分の現実を見ていなかったようだ。ずいぶん理想という梯子の上のほうまで来てしまって、現実というアスファルトの地面が随分遠い。足がすくむような思いだ。みんなが同じ理想を持ち、なおかつ強制がない緩い共同体という理想。言うのは簡単だが、そんなものは容易に目の前には現れない。結局は友だちの多い奴の勝ちとなれば、それは僕の望む理想ではない。かといって独りで戦うことは厳しい。それではまた近代的自我という問題に戻ってしまう。僕が想像するのは、まったく透明な個人である。例えて言うなら、『2001年宇宙の旅』のラストに登場する“スターチャイルド”のような新人類。ひたすら大きくて小さい存在。
 
 また理想論をぶち上げた。まあいい。独りの女の子の話をしよう。彼女は今、ヴァンクーバーの母親が住む家の地下室で音楽制作に没頭している。名前はクレア・ブッチャー。まもなくGRIMESという名で知られるようになる。
 GRIMESを生んだモントリオールの音楽コミュニティー“Mile End”は半径3ブロック以内に密集している。アーケイドファイアのメンバーもいまだにホームだというその場所には、マック・デマルコ、ショーンニコラスサベージらの変わったDIYポップミュージシャンたちも集っている。GRIMESは機材の使用方法をMile Endの仲間たちから学んだ。「とても良い場所よ。でも、仲間意識が強すぎるし、仕事に集中しづらかった。」(SPIN Magazine May-Jun P.88)
 彼女はあまりに結束の強い共同体から去り、家の地下室に籠ることになる。彼女は何日間も絶食状態で精神を高め、アルバム制作に没頭した。その結果、世に出た『Visions』は彼女を一躍インディー系のスターにした。ベンジャミンフランクリンも驚く禁欲主義的な姿勢で制作されたこのアルバムの中を開けると、そこにはこれまたびっくりするようなキャッチーな曲が散りばめられていた。彼女のボーカルは非常に神秘的で静謐ながら、マドンナやマライア・キャリーといった80年代の歌姫に通ずる天性のメロディーセンスをも兼ね備えていた。それは東洋的であり、西洋的であった。浅はかな人間を拒絶するような静謐さ、そして全ての人間に楽しい記憶を思い出させるメロディーが奇跡的に同居している。
 ソロで活動するアーティストは孤高な空気を漂わせてきた。ボブ・ディランやニールヤングといった60年代から70年代にかけてのアメリカの独立者は孤独が似合った。観客に媚を売るなんてことはあり得なかった。ディランは周囲の人間を嘲笑するように女性物の水玉シャツを着て、テレキャスターを首にかけた。ニールヤングは『After the goldrush』で60年代に取り残された青年の孤独を歌った。
 80年代にはマイケル・ジャクソン、さきほども挙げたマドンナやマライア・キャリーといったマイノリティーである女性たちが登場する。マドンナは傑作『True Blue』(1986年)のオープニングナンバーである“Papa Don’t Preach”で父親との決別を宣言する。

 “パパ、分かってる
 パパが動揺するだろうってこと
 だって私はいつもパパの可愛い小娘だったんだもの
 でも、もうパパは知るべきよ
 私はもうパパの可愛い小娘じゃないの”

 ロックは誕生してからずっとマイノリティーのための音楽であった。しかし、それは父権制を否定するものではなかったのだ。結局は「強い男たちの物語」であったのだ。マドンナは父の欺瞞を暴いた。ただ、父を玉座から引き摺り落した彼女はそのまま同じ役割を受け入れた。
 90年代、カートコバーンは売れてもパジャマ姿で、いわゆるロックスターになることは拒否した。彼はグラスゴーのティーンエイジファンクラブや日本の少年ナイフといったロックのアンダーグラウンドにいる人たちに敬意を払っていた。今まで国境を越えて敬意を表する、特に日本とアメリカのバンドが対等に尊敬しあうということは僕の知る限りではない。異国情緒というバイアスを通さずに、カートコバーンは外国のバンドに敬意を表していたと思う。しかし、グランジムーヴメントもハードロックのカウンターであるという側面があった。カートコバーンはアクセル・ローズと犬猿の仲だった。権力に立ち向かうという父権的な面影はまだ消えていなかった。
 GRIMESはゴスロリファッションに身を包み、トトロのリュックを足元に置いてライヴをする。韓国の歌手G-DRAGONのファンであり、ゼルダの伝説とポケモンが好きだ。彼女はインディーズ系のアーティストにありがちな、メインストリームを批判するようなことはせず、テイラー・スウィフトやジャスティン・ビーバーを賞賛している。Tumblrtwitter上の彼女の言葉は非常に知的で率直だ。彼女はtumblrで性差別やポップミュージックの偏見について批判する文章を載せたことがあった。彼女が戦う相手がいるとすれば、それは偏見なのだろう。彼女は音楽で人々を繋ぐだけではなく、異文化を積極的に自分のなかに取り入れるだけでなく、消化し、またジャンル、国籍、人種など関係なく敬意を表することで、偏見をなくそうとしているように見える。
  それは今までなし得なかったような理想を実現する試みだ。ネット時代が成熟し、今やyoutubesoundcloudを覗けば、時間差なく世界中の最新のスタイルや音楽にアクセスができ、気に入ればコンタクトを取ることができる。サイバー空間において国境は無効化され、誰もが偏見を持たずに作品それ自体に触れることができる。
 
 “あなたが本当に独りでやっていこうとするとき
 理解者を得ることは難しい”(oblivion

 Grimesはこのように、現代において独立者としてやっていくことの難しさを歌っている。音楽のトレンドが移り変わるペースはどんどん速くなり、リスナーはどんどん細分化されていっている。80年代のマイケル・ジャクソンやマドンナのような誰もが知るスーパースターになることは厳しくなった。だからこそ、Grimesは新たな理想を模索している。

 “私は永遠に待ち続ける
 いつも前を向いて
 全ての別の道を考えて数えるわ”

 世界中の顔の見えない仲間たちと繋がる緩い共同体を形成し、全世界の中規模のライヴハウスを渡り歩く。実際、彼女は4月までアジア各国をツアーしていた。しかもチケットに余裕があれば、顔も知らない2、3人のファンをゲストリストに加えた。サイバー空間で繋がった彼女とファンたちは、身体レベルの交流を果たす。
 
 “タフな道のりになると思う
 でも私は永遠に待ち続ける
 私の目を覗き込んで、健康に気をつけなよと言ってくれる誰かが必要だから”
 
 サイバー空間という現代の現実を通して、世界中の仲間たちと繋がる理想を描く。そしてGrimesはその理想を実現しつつある。彼女と実際に会ったファンは、彼女と会ったことないにも関わらず、彼女のことを良く知っているという奇妙な気分を感じるのではないか。Grimesが昨日、インドでお腹を壊していたことや、聴いていた音楽などtwitterなどを通じて僕らは共有しているからだ。
 いつの時代にも理想はあった。それはどんなに厳しい現実を目の前にしても、決して消えることは無い。いま、古い理想は消えつつあるかもしれない。しかし、その下から新たな芽がいくつも顔を出していることだろう。一人一人が自分たちの足元を見つめ、その先に伸びる長い理想の道のりを歩んでいこうとしているだろう。そしてその理想の道は独りで歩くものにはならないだろう。同じ志を共有した小さな仲間たちにも伸びているのだ。最後に、理想に生きた偉大なる故人イェイツの詩『彼は天の布を求める』から少し拝借してこの冗長な文章を終えることにしよう。
 
 “だが貧しい私には夢しかない。
 僕はあなたの足もとに夢を広げた。
 そっと歩いてくれ、僕の夢の上を歩くのだから。”(『イェイツ詩集』岩波文庫
高松雄一編)