2012年5月11日金曜日
2012年5月9日水曜日
BLACK SWAN
自分と自分の別人格、ダブル(分身)ものの映画作品で思いつくのは、まずヒッチコックの『サイコ』、ミッキーローク主演の『エンゼルハート』、『ファイトクラブ』あと『ミミック』とか色々ある。プロットで驚くということは現代の映画において必ずしも重要であるとは思わない僕は、『ブラックスワン』のナタリーポートマン演じるニナとミラキュニス演じるリリーの関係性については別に書きたいと思わない。
ただこの映画は展開がある程度予想できるとはいえ、とても不気味で不安感を煽るのだ。俳優陣の素晴らしい演技が作品全体にテンションを与えていることが単純に大きいと思った。ナタリーポートマンは今作で、プレッシャーに押しつぶされる情緒不安定な少女の表情、女性というより人間の崇高な肉体美、潜在意識に眠る自我など全く異なる女性の面を、全く継ぎ目の見えない完璧な、まるで全速疾走で綱渡りをするかのような、危ういギリギリの演技で見せてくれる。ベッドの上で自慰に耽っているときの筋肉の動きと恍惚とした顔、母親に白鳥に抜擢されたことを報告するときの泣き顔、ラストの白鳥が黒鳥に変身して踊っている時の狂気じみた顔を見てほしい。真逆のものが一続きであるのがわかるだろう。もしかしたら『レオン』の時、既に彼女にはこういった相容れない要素を一作品の中で見せてしまう希有な才能を発揮していたのかもしれない。家族を失くして泣きはらす顔、復讐に燃える冷静で知的な顔、大人を誘惑する妖艶な顔。改めてナタリーポートマンの凄さを思い知らされた。
脇を固める俳優も実に適切に配置されている。ヴァンサンカッセルのあの胡散臭く憎たらしい顔、母親役のバーバラハーシーの娘を見る愛憎こもった狂気の笑顔、そしてウィノナ・ライダーの演じる落ちぶれたダンサー。『シザーハンズ』のブロンドの美少女はどこにいったんだと悲しい気分になったし、役があまりに彼女の現状と被る気もしたため、胸が痛む部分もあったけれど、この仕事を引き受けて過激な演技を成し遂げたウィノナには女優魂を見た気がした。
また作品にテンションを与える上で、ニナの背中に現れる謎の引っかき傷、指先の切り傷はとてもうまい演出であると思った。それらは誰もが経験したことがあるであろう恐怖であり、痛みである。またその傷は最終的に彼女の追い求めた完璧さ、快楽へと繋がっていくことも興味深い。痛みによって快楽を知るとは、エミリーディキンソンの詩を思い起こすし、また18世紀のピクチャレスクの概念も思い出す。美と恐怖とは同一であるのだという。
ただこの映画は展開がある程度予想できるとはいえ、とても不気味で不安感を煽るのだ。俳優陣の素晴らしい演技が作品全体にテンションを与えていることが単純に大きいと思った。ナタリーポートマンは今作で、プレッシャーに押しつぶされる情緒不安定な少女の表情、女性というより人間の崇高な肉体美、潜在意識に眠る自我など全く異なる女性の面を、全く継ぎ目の見えない完璧な、まるで全速疾走で綱渡りをするかのような、危ういギリギリの演技で見せてくれる。ベッドの上で自慰に耽っているときの筋肉の動きと恍惚とした顔、母親に白鳥に抜擢されたことを報告するときの泣き顔、ラストの白鳥が黒鳥に変身して踊っている時の狂気じみた顔を見てほしい。真逆のものが一続きであるのがわかるだろう。もしかしたら『レオン』の時、既に彼女にはこういった相容れない要素を一作品の中で見せてしまう希有な才能を発揮していたのかもしれない。家族を失くして泣きはらす顔、復讐に燃える冷静で知的な顔、大人を誘惑する妖艶な顔。改めてナタリーポートマンの凄さを思い知らされた。
脇を固める俳優も実に適切に配置されている。ヴァンサンカッセルのあの胡散臭く憎たらしい顔、母親役のバーバラハーシーの娘を見る愛憎こもった狂気の笑顔、そしてウィノナ・ライダーの演じる落ちぶれたダンサー。『シザーハンズ』のブロンドの美少女はどこにいったんだと悲しい気分になったし、役があまりに彼女の現状と被る気もしたため、胸が痛む部分もあったけれど、この仕事を引き受けて過激な演技を成し遂げたウィノナには女優魂を見た気がした。
また作品にテンションを与える上で、ニナの背中に現れる謎の引っかき傷、指先の切り傷はとてもうまい演出であると思った。それらは誰もが経験したことがあるであろう恐怖であり、痛みである。またその傷は最終的に彼女の追い求めた完璧さ、快楽へと繋がっていくことも興味深い。痛みによって快楽を知るとは、エミリーディキンソンの詩を思い起こすし、また18世紀のピクチャレスクの概念も思い出す。美と恐怖とは同一であるのだという。
2012年5月7日月曜日
2012年5月6日日曜日
grimes
grimesは聴いた瞬間に、すごいなあ売れるなあと思った。時代の先陣を切ってる感じだ。シンセのサウンドはクラフトワークに通じる暖かいヴィンテージなんだけど、80年代の歌姫を想像させるこの女性ボーカルはすごく良いな。リバーブがかかっているからどことなく、90年代のMassive Attackあたりかコクトーツインズのようなぞっとする荘厳さも加わってるからチルウェイヴ周辺にも気を配っていながら異質な感じがある。リバーブの霧が突如消えてピアノの生音だけのだだっ広い風景が開けたかと思いきや、次の瞬間にはチープなリズムマシンと、オクターブ違いのベース音で王道なディスコミュージックに戻っていく。この空間の使い方、間の置き方とか素晴らしいなと思った。ライブ映像を見たら女の子がシンセの前で1人で全部操作して歌っているじゃないか。こういうのも今っぽい。
Oblivionを聴いて頭に浮かんだのは初期マドンナ。マドンナが2012年を生きる女子だったら、それはGrimesになるんじゃないかとちょっと思ったりした。
2012年5月5日土曜日
アダム・ヤウク、あんたは最高だ。
私が洋楽を意識的に聴き始めた高校生の時に、beastie boysの『To the 5 Boroughs』がちょうどリリースされたと記憶しています。MTVでCh-Check It OutのPVをしょっちゅう見ていました。都会的で知的でな雰囲気を持ちながらも、アホで馬鹿げたとっつきやすさがある彼らは、もしかしたら私にヒップホップ、ひいては洋楽に乗っかる乗車券をくれた存在だったのかもしれないと今になって思います。
ハードコアとヒップホップという過激なフォーマットの上で、あれほど気が抜けていてクールなことができるのはあの3人だけではないでしょうか。僕はこの2つのジャンルが今大好きですが、ビースティーボーイズがいなかったら、たぶん手に取ることはなかったかもしれないとも思います。僕みたいな良い子ちゃんが敬遠しがちであるハードコアやヒップホップと繋がる入り口を用意してくれた彼らはすごく偉大だなと実感しています。感謝しています。
アダム・ヤウクさんは好きでした。3人の中では一番知的で渋い雰囲気を出していて改めて写真を眺めてみると、本当にこれからもっと良いおじさんになったろうなあと考えてしまいます。fight for your rightを久しぶりに聴いてみましたけど、普段の生活で忘れてしまいそうな、自分を取り巻く世界に対する知性とか野性の重要性を思い出させてくれます。現代の世界に必要なことって、ビースティーみたいな人間なんだって思います。並々ならぬエネルギーと物事の本質を見つめる純粋な眼差し、それを支える知性。本当にかっこいい奴らです。
2012年4月27日金曜日
パールジャムのドキュメンタリー
キャメロンクロウが監督したパールジャムのドキュメンタリー映画を見た。パールジャムはグランジを語る時にニルヴァーナと共に欠かせないバンドだ。でも、僕はあんまり聴いたことがなく、『Vs』は聞いた覚えがあるけれど、全く覚えていない。単純にあまり音楽性が好きではないというのがある。ニルヴァーナがパンクよりだとすれば、パールジャムはスタジアムロックという印象で、あまり身体がノってこない。
グランジと言えば、ハードロックの流れを終わらせたムーヴメントとして語られる。ただ、このドキュメンタリーでのグランジという言葉は、当たり前の話だが関係者からはあまり聞かれず、メディア側が勝手に付けたレッテルとして扱われている。キャメロン・クロウはパールジャムというバンドを大きなロック史の流れで捉えることよりは、もっと普遍的な人間関係に焦点を当てている。
私は知らなかったのだが、エディー・ベダーが加入する前に「マザーラブボーン」という前身バンドがあったのだという。そのグループのボーカルであったアンディーがドラッグのオーヴァードーズで帰らぬ人となり、そういった失意と絶望の淵から、エディー・ベダーという若者の送ったボーカル入りデモが再び光をもたらし、パールジャムというバンドがスタートしたらしいのだ。
今でさえ、スタジアムが似合うバンドではあるが、昔の映像の彼らはニルヴァーナも同じく、いかにもシアトル出身のシャイな若者たちによるローカルなバンドという印象を与える。歌詞の内容に関しても、初期のエディーが歌うのは父親との関係である。売れてからもカート・コベインの死、商業主義的な興行との対決、そしてライヴでの死亡事故など、彼らは常に自分たちの現実の中で戦い、それ以上の何も見ていない。有名になっても彼らの幸せは、地下室に行ってみんなで演奏して、レコーディングをして、小さな会場でライヴをやることなのだ。
彼らはアンディーやカート・コベインの死をずっと心に抱え、そしていつでもファンのことを考えて生きている。仲間のために、ファンのために、この精神こそがグランジと呼ばれたムーヴメントの正体なのだ。それは決してハードロックを破壊するために生まれたわけではなく、ロック好きな少年たちの自分自身の居場所を見つけるための戦いであったのだ。
キャメロン・クロウは自伝的作品『あの頃ペニーレインと』でも描かれているが、60年代から70年代のロックのロマンスがあった時代に活躍した音楽ジャーナリストである。あの時代のヒーローたちはみんな公私関係なく格好良かった。全身全霊でロックンロールにぶつかって死んでいったやつらだ。パールジャムはザ・フーやレッドツェッペリン、ニールヤングといった偉大なる先人たちへの崇敬の念を隠さない。キャメロン監督はそういった先人たちの持っていた精神性と通じるものを彼らの中に感じたのだろう。確かにパールジャムにはあの頃のヒーローたちが持っていた真剣さと危うさがあると思う。
音楽を抜きにして、生き様がかっこいいというバンドは、今どれくらいいるだろう。リバティーンズは間違いなくそういうバンドだったと思うが。結局、僕も10代のキッズと同じく、馬鹿みたいに真摯で危うい、神話を作っちゃうような奴らを待ち望んでいる。
グランジと言えば、ハードロックの流れを終わらせたムーヴメントとして語られる。ただ、このドキュメンタリーでのグランジという言葉は、当たり前の話だが関係者からはあまり聞かれず、メディア側が勝手に付けたレッテルとして扱われている。キャメロン・クロウはパールジャムというバンドを大きなロック史の流れで捉えることよりは、もっと普遍的な人間関係に焦点を当てている。
私は知らなかったのだが、エディー・ベダーが加入する前に「マザーラブボーン」という前身バンドがあったのだという。そのグループのボーカルであったアンディーがドラッグのオーヴァードーズで帰らぬ人となり、そういった失意と絶望の淵から、エディー・ベダーという若者の送ったボーカル入りデモが再び光をもたらし、パールジャムというバンドがスタートしたらしいのだ。
今でさえ、スタジアムが似合うバンドではあるが、昔の映像の彼らはニルヴァーナも同じく、いかにもシアトル出身のシャイな若者たちによるローカルなバンドという印象を与える。歌詞の内容に関しても、初期のエディーが歌うのは父親との関係である。売れてからもカート・コベインの死、商業主義的な興行との対決、そしてライヴでの死亡事故など、彼らは常に自分たちの現実の中で戦い、それ以上の何も見ていない。有名になっても彼らの幸せは、地下室に行ってみんなで演奏して、レコーディングをして、小さな会場でライヴをやることなのだ。
彼らはアンディーやカート・コベインの死をずっと心に抱え、そしていつでもファンのことを考えて生きている。仲間のために、ファンのために、この精神こそがグランジと呼ばれたムーヴメントの正体なのだ。それは決してハードロックを破壊するために生まれたわけではなく、ロック好きな少年たちの自分自身の居場所を見つけるための戦いであったのだ。
キャメロン・クロウは自伝的作品『あの頃ペニーレインと』でも描かれているが、60年代から70年代のロックのロマンスがあった時代に活躍した音楽ジャーナリストである。あの時代のヒーローたちはみんな公私関係なく格好良かった。全身全霊でロックンロールにぶつかって死んでいったやつらだ。パールジャムはザ・フーやレッドツェッペリン、ニールヤングといった偉大なる先人たちへの崇敬の念を隠さない。キャメロン監督はそういった先人たちの持っていた精神性と通じるものを彼らの中に感じたのだろう。確かにパールジャムにはあの頃のヒーローたちが持っていた真剣さと危うさがあると思う。
音楽を抜きにして、生き様がかっこいいというバンドは、今どれくらいいるだろう。リバティーンズは間違いなくそういうバンドだったと思うが。結局、僕も10代のキッズと同じく、馬鹿みたいに真摯で危うい、神話を作っちゃうような奴らを待ち望んでいる。
登録:
投稿 (Atom)