2013年2月27日水曜日
2013年2月24日日曜日
2013年2月19日火曜日
全豪オープン
けっこう前の話だけれど、テニスの全豪オープンがやっててずっとそれを見ていた。テニスの試合は信じられないくらい長くて1試合3時間以上になるので、昼間から見ていて11時くらいになっても、まだテニス中継は続いていた。
僕が好きなボクシングは、最長の世界戦でも1R3分12Rで、各ラウンドのインターバル1分。1時間もかからず、試合は終わるのだ。15R制の時代もあったのだけれども、それでもテニスに比べれば圧倒的に少ない。あの永遠に続くかのようなラリーは、普段ボクシングしか見ないような人間にとってはかなり辛い。でも、どんなスポーツにもそのスポーツなりの魅力があるわけで、僕の中でぐっと来るところはあった。
真っ青なテニスコートに、まだ熟し切っていないライムのような色をしたボールが転がっている。全豪オープンは想像を絶するような暑さのなかで行なわれたのだが、その特別な空間のなかで全ては涼しげだ。イギリス出身の若い女性テニスプレーヤーが現れる。そのぴっちりと体にまとわりついたユニフォームから覗く汗のたまった胸の谷間や、サーブを打とうと前傾姿勢になった瞬間に見えるしなやかな脚の筋肉は健康的な官能美に満ちている。
ボールボーイの子どもたちは、そのリゾート地のようなコートの隅でじっと待機している。そして、選手が打ったボールがネットに引っかかり、コート中央に落ちた瞬間、ボールの元へと跳んでいく。彼らはまるで、ハンモックで眠る美女の手から滑り落ちた食べかけのレモンを手に入れようとする少年のようだ。
このコートのなかで行なわれる戦いは、観客も含めた大掛かりな芝居のように見えた。あのラリーも続けば続くほど、コート上の2人は共闘しているのではないか?このテニスという汚れ一つない、流れ落ちる汗がコートに落ちた瞬間にダイヤモンドへと変わるような、美しいスポーツを完成させるための営みなのではないか?と錯覚してしまう。
ボクシングは、あの30分強の時間内で、リング中央にいる男たちの生死が決まるようなスポーツだ。比喩ではなくそうなのだ。華々しいノックアウトの影に引退を余儀なくされた男が、激しい打ち合いの末に後遺症を背負っていく男がいる。負けることで全てを失う人間がいる。
テニスはボクシングとは全く無縁のスポーツなのだ。僕はテニスに驚嘆し、畏敬の念すら感じるのだが、あまり近づきたいとは思わない。ボクシングにどっぷり浸かる人間とテニスにどっぷり浸かる人間は、根本的に相容れないのかもしれない。
2013年2月17日日曜日
ロバート・キャパ / ゲルダ・タロー 二人の写真家
「ロバート・キャパ」という名は当初アンドレ・フリードマンとドイツ人女性ゲルダ・タローの2人によって創出された架空の写真家である。僕はそんなこと知らなかったので、非常に驚いたのだった。キャパとはその誕生の瞬間から個人ではなく、複数の人間による匿名性を帯びた集合体なのである。1937年、タローはスペイン内戦の取材中に命を落とし、それからキャパはフリードマンが名乗るわけだが、それにしてもこの事実はかなり興味深いものだ。
フリードマンは1913年に生まれている。第一次世界大戦が起きる前の年だ。第一次大戦は機関銃や戦車、毒ガスが使われた最初の戦争であり、犠牲者は甚大であった。戦争は国を豊かにするものではなくなり、ロマンティシズムを否定するようなものになった。大戦後はドイツは賠償金に苦しみ、戦勝国アメリカの帰還兵たちは職もなく、後遺症に苦しんだ一方で、豊かな物資の集中によって消費文化が広がっていき、ジャズエイジという黄金時代が訪れる。共産主義者に対するリンチ事件がこの喧噪の時代の幕開けであるとフィッツジェラルドは『May day』で書いている。キャパと交流のあるヘミングウェイもこの時代を代表する作家だ。彼の作品の主人公は著しく感情を現さない、屈強な男性が多い。『誰がために鐘は鳴る』の主人公は、キャパと同様にスペイン内戦に関わるのだが、彼は味方を逃がして自分は殺されてしまう。作戦は失敗する。たぶん、彼は語られ得ない存在として歴史の闇に消えていくだろう。
フリードマンとタローが写し出すのは、特別な人ではなく、普通の語られないようなどこにでもいる人々である。僕は技術的なことはあまり分からないが、2人の写真は際立った特徴があるわけではない。ただ事実を淡々と映しているだけのように思える。でも、どれもかけがえのないものである。個人がどんどん失われる時代になって、全体主義が広がりを見せていく中で、翻弄される名もない個人たちの写真。彼らは歴史のなかに消えていく運命だ。ヘミングウェイの主人公たちのように、イデオロギーや歴史のダイナミズムのなかに埋もれて死んでいく。だが、そういった個人は無力であるが故に、拾われなければならない。キャパという架空の人物は、そんな中に必然的に登場してきたのだ。流通しはじめた小型カメラで戦場へと向かう男女。彼らは1人1人の個人を守ろうとする意識の集合体。それは偶然にもフリードマンとタローであったのだ。
スペイン内戦の兵士や女性、子どもたちの写真を見つめる時に、キャパの存在が初めて浮かび上がるように思える。固有名詞を持った際立った写真家「キャパ」ではなく、無数の名もない個人の集合体であるキャパ。フリードマンとタローは写真家「キャパ」である以前に、彼らもまた時代に翻弄された個人なのだ。だからその1つ1つの写真からは、妙なエゴイズムというものが感じられない。被写体の表情は全く歪めらていない。同じ地平に立っている。それは例えば、家族とか友人、恋人を写すように自然で普遍的だ。それは時を経ても変わらず、人間が写真に、また頭の中に焼き付けている原風景である。だから、キャパの写真の前に立つ時、ふと誰かの表情を思い出したり、自分のおじいさん、おばあさんの写真を見ているような気分になる。
フリードマンは1913年に生まれている。第一次世界大戦が起きる前の年だ。第一次大戦は機関銃や戦車、毒ガスが使われた最初の戦争であり、犠牲者は甚大であった。戦争は国を豊かにするものではなくなり、ロマンティシズムを否定するようなものになった。大戦後はドイツは賠償金に苦しみ、戦勝国アメリカの帰還兵たちは職もなく、後遺症に苦しんだ一方で、豊かな物資の集中によって消費文化が広がっていき、ジャズエイジという黄金時代が訪れる。共産主義者に対するリンチ事件がこの喧噪の時代の幕開けであるとフィッツジェラルドは『May day』で書いている。キャパと交流のあるヘミングウェイもこの時代を代表する作家だ。彼の作品の主人公は著しく感情を現さない、屈強な男性が多い。『誰がために鐘は鳴る』の主人公は、キャパと同様にスペイン内戦に関わるのだが、彼は味方を逃がして自分は殺されてしまう。作戦は失敗する。たぶん、彼は語られ得ない存在として歴史の闇に消えていくだろう。
フリードマンとタローが写し出すのは、特別な人ではなく、普通の語られないようなどこにでもいる人々である。僕は技術的なことはあまり分からないが、2人の写真は際立った特徴があるわけではない。ただ事実を淡々と映しているだけのように思える。でも、どれもかけがえのないものである。個人がどんどん失われる時代になって、全体主義が広がりを見せていく中で、翻弄される名もない個人たちの写真。彼らは歴史のなかに消えていく運命だ。ヘミングウェイの主人公たちのように、イデオロギーや歴史のダイナミズムのなかに埋もれて死んでいく。だが、そういった個人は無力であるが故に、拾われなければならない。キャパという架空の人物は、そんな中に必然的に登場してきたのだ。流通しはじめた小型カメラで戦場へと向かう男女。彼らは1人1人の個人を守ろうとする意識の集合体。それは偶然にもフリードマンとタローであったのだ。
スペイン内戦の兵士や女性、子どもたちの写真を見つめる時に、キャパの存在が初めて浮かび上がるように思える。固有名詞を持った際立った写真家「キャパ」ではなく、無数の名もない個人の集合体であるキャパ。フリードマンとタローは写真家「キャパ」である以前に、彼らもまた時代に翻弄された個人なのだ。だからその1つ1つの写真からは、妙なエゴイズムというものが感じられない。被写体の表情は全く歪めらていない。同じ地平に立っている。それは例えば、家族とか友人、恋人を写すように自然で普遍的だ。それは時を経ても変わらず、人間が写真に、また頭の中に焼き付けている原風景である。だから、キャパの写真の前に立つ時、ふと誰かの表情を思い出したり、自分のおじいさん、おばあさんの写真を見ているような気分になる。
2013年2月13日水曜日
2013年2月9日土曜日
2013年2月6日水曜日
ライフオブパイ なぜ中年のパイが語るのか
この映画は作家がパイの元を訪ね、パイが自ら物語るという形で話が進んでいく。この手法を取ることがどのような意味を持つのかは結末にて明らかにされる。トラと一緒に放浪するということだから、危険がいっぱいで主人公の生死は明かされないまま話が進むのが普通だと思うけれど、冒頭であっさり中年になったパイが出てくることで彼が生き残ったということが最初から見る側に提示される。どうやら、これはただの娯楽作品ではないんだなと僕はここで身を乗り出すわけだ。
様々な寓意によって彩られた話は、町山智浩さんがたぶんもう解説されているのではないかと思うが、まずパイというのは円周率「π」のことである。そしてこの「π」は調べると分かるが、かなり奥が深い。円は見た目に完結しているように見えるが、円周率は3.14(僕はここまでしか暗記していない)のあと、無限に続く無理数というものらしい。簡潔だが、無限の可能性を秘めているのがこの「π」なのだ。
そして要のトラだが、小さい頃のパイはトラを友人だと思い、檻にエサを持っていく。そこを父親に止められ、彼はトラとは人間とは似ても似つかない獣であることを教わるのだ。トラは一緒に漂流してからも、パイの命を奪う危険な生物、分かり合えない他者として存在している。しかし、彼はトラが日に日に海上の上で飢えていくのを見て、このまま行けば自分が最後には食われてしまうと思い、自分を殺す他者に、自分を生かすために餌を与えるという矛盾した状況に陥るのだ。そしてトラとパイは、徐々に心を通じ合うようになり、他者が自己となっていく。これはギリシャ哲学以来のテーマである人間と自然の調和である。全く相容れないと思われた他者の中に自己を発見するとき、初めて人間と自然は調和し世界は完成する。ただ、トラは最後、あっけなくパイの元を去っていく。これはもう彼にとってトラ=他者とは恐れるような外部者として存在していないからだ。パイは自分の中にある他者を認めることで世界と和解しトラを放つことができたのだ。
パイは何度か神に向かって怒りをあらわにする。なぜこんな試練を与えるのかと。ただ、この疑念に満ちた命からがらの旅の過程にこそ、神は存在するのだ。途中に寄る、恐ろしいミーアキャットの島は、外見が女性の形をしていることから分かるように、母なる大地を表している。これは息子を受け入れながら、拒否をする存在だ。息子は旅に出なければならない。最後の最後まで。そうする過程にしか神はいないのだ、神の探求こそが神の発見であるということをパイに教えている。
そして、中年のパイは全てを語り終えたあと、種明かしのように無味乾燥な遭難事件の事実を語り始める。たぶん、ここでトラの物語と無味乾燥な事実とを対峙させるべく、中年のパイという奥行きが不可欠であった。僕らはこの2つの話を前に、「どちらがいいだろうか?」と差し出される。僕はここで膝を打つことになるのだ。壮大な嘘が時に、事実よりも真実を語ることがある。それを僕らは「物語」と呼ぶ。聖書でモーセが砂漠を放浪している時、彼は見つけてきた石版を神のお告げだと言った。それは確かに嘘だったろう。ただ、その嘘が流浪の民に生きる力を与えることになる。それが現在まで続いている。πが無限の可能性を秘めているように、僕らのこの退屈な人生も、想像力次第で無限の可能性を持ち始めるだろう。「嘘と事実、どちらを取るか?」僕は前者を取る。
様々な寓意によって彩られた話は、町山智浩さんがたぶんもう解説されているのではないかと思うが、まずパイというのは円周率「π」のことである。そしてこの「π」は調べると分かるが、かなり奥が深い。円は見た目に完結しているように見えるが、円周率は3.14(僕はここまでしか暗記していない)のあと、無限に続く無理数というものらしい。簡潔だが、無限の可能性を秘めているのがこの「π」なのだ。
そして要のトラだが、小さい頃のパイはトラを友人だと思い、檻にエサを持っていく。そこを父親に止められ、彼はトラとは人間とは似ても似つかない獣であることを教わるのだ。トラは一緒に漂流してからも、パイの命を奪う危険な生物、分かり合えない他者として存在している。しかし、彼はトラが日に日に海上の上で飢えていくのを見て、このまま行けば自分が最後には食われてしまうと思い、自分を殺す他者に、自分を生かすために餌を与えるという矛盾した状況に陥るのだ。そしてトラとパイは、徐々に心を通じ合うようになり、他者が自己となっていく。これはギリシャ哲学以来のテーマである人間と自然の調和である。全く相容れないと思われた他者の中に自己を発見するとき、初めて人間と自然は調和し世界は完成する。ただ、トラは最後、あっけなくパイの元を去っていく。これはもう彼にとってトラ=他者とは恐れるような外部者として存在していないからだ。パイは自分の中にある他者を認めることで世界と和解しトラを放つことができたのだ。
パイは何度か神に向かって怒りをあらわにする。なぜこんな試練を与えるのかと。ただ、この疑念に満ちた命からがらの旅の過程にこそ、神は存在するのだ。途中に寄る、恐ろしいミーアキャットの島は、外見が女性の形をしていることから分かるように、母なる大地を表している。これは息子を受け入れながら、拒否をする存在だ。息子は旅に出なければならない。最後の最後まで。そうする過程にしか神はいないのだ、神の探求こそが神の発見であるということをパイに教えている。
そして、中年のパイは全てを語り終えたあと、種明かしのように無味乾燥な遭難事件の事実を語り始める。たぶん、ここでトラの物語と無味乾燥な事実とを対峙させるべく、中年のパイという奥行きが不可欠であった。僕らはこの2つの話を前に、「どちらがいいだろうか?」と差し出される。僕はここで膝を打つことになるのだ。壮大な嘘が時に、事実よりも真実を語ることがある。それを僕らは「物語」と呼ぶ。聖書でモーセが砂漠を放浪している時、彼は見つけてきた石版を神のお告げだと言った。それは確かに嘘だったろう。ただ、その嘘が流浪の民に生きる力を与えることになる。それが現在まで続いている。πが無限の可能性を秘めているように、僕らのこの退屈な人生も、想像力次第で無限の可能性を持ち始めるだろう。「嘘と事実、どちらを取るか?」僕は前者を取る。
2013年2月5日火曜日
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