この映画は作家がパイの元を訪ね、パイが自ら物語るという形で話が進んでいく。この手法を取ることがどのような意味を持つのかは結末にて明らかにされる。トラと一緒に放浪するということだから、危険がいっぱいで主人公の生死は明かされないまま話が進むのが普通だと思うけれど、冒頭であっさり中年になったパイが出てくることで彼が生き残ったということが最初から見る側に提示される。どうやら、これはただの娯楽作品ではないんだなと僕はここで身を乗り出すわけだ。
様々な寓意によって彩られた話は、町山智浩さんがたぶんもう解説されているのではないかと思うが、まずパイというのは円周率「π」のことである。そしてこの「π」は調べると分かるが、かなり奥が深い。円は見た目に完結しているように見えるが、円周率は3.14(僕はここまでしか暗記していない)のあと、無限に続く無理数というものらしい。簡潔だが、無限の可能性を秘めているのがこの「π」なのだ。
そして要のトラだが、小さい頃のパイはトラを友人だと思い、檻にエサを持っていく。そこを父親に止められ、彼はトラとは人間とは似ても似つかない獣であることを教わるのだ。トラは一緒に漂流してからも、パイの命を奪う危険な生物、分かり合えない他者として存在している。しかし、彼はトラが日に日に海上の上で飢えていくのを見て、このまま行けば自分が最後には食われてしまうと思い、自分を殺す他者に、自分を生かすために餌を与えるという矛盾した状況に陥るのだ。そしてトラとパイは、徐々に心を通じ合うようになり、他者が自己となっていく。これはギリシャ哲学以来のテーマである人間と自然の調和である。全く相容れないと思われた他者の中に自己を発見するとき、初めて人間と自然は調和し世界は完成する。ただ、トラは最後、あっけなくパイの元を去っていく。これはもう彼にとってトラ=他者とは恐れるような外部者として存在していないからだ。パイは自分の中にある他者を認めることで世界と和解しトラを放つことができたのだ。
パイは何度か神に向かって怒りをあらわにする。なぜこんな試練を与えるのかと。ただ、この疑念に満ちた命からがらの旅の過程にこそ、神は存在するのだ。途中に寄る、恐ろしいミーアキャットの島は、外見が女性の形をしていることから分かるように、母なる大地を表している。これは息子を受け入れながら、拒否をする存在だ。息子は旅に出なければならない。最後の最後まで。そうする過程にしか神はいないのだ、神の探求こそが神の発見であるということをパイに教えている。
そして、中年のパイは全てを語り終えたあと、種明かしのように無味乾燥な遭難事件の事実を語り始める。たぶん、ここでトラの物語と無味乾燥な事実とを対峙させるべく、中年のパイという奥行きが不可欠であった。僕らはこの2つの話を前に、「どちらがいいだろうか?」と差し出される。僕はここで膝を打つことになるのだ。壮大な嘘が時に、事実よりも真実を語ることがある。それを僕らは「物語」と呼ぶ。聖書でモーセが砂漠を放浪している時、彼は見つけてきた石版を神のお告げだと言った。それは確かに嘘だったろう。ただ、その嘘が流浪の民に生きる力を与えることになる。それが現在まで続いている。πが無限の可能性を秘めているように、僕らのこの退屈な人生も、想像力次第で無限の可能性を持ち始めるだろう。「嘘と事実、どちらを取るか?」僕は前者を取る。
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