2012年6月13日水曜日

『終着駅 トルストイ最後の旅』


 『人生論』、『アンナカレーニナ』を学生時代に読んだ。特に『人生論』は愛について、生きる意味について多く教えてくれた。月日が過ぎて、僕の中でトルストイは過去の物になってしまった。ただ、忘れたわけではなく、机の引き出しを開けるたびに目に入るけれど手に取ることはしない思い出の品みたいなものだった。
 過去の物だと思っていたものが、再び新しい価値観を帯びて自分の元に現れると、何だか不思議な気持ちになる。昔から知っている人、かつて愛した人で一度は憎んで馬鹿にして、相手にしなくなった人との些細な記憶が、全く違う現在の光を浴びて、記憶の中に溜まっていた埃までもがキラキラした美しいものに変わり、あの人の流した涙、怒りの言葉、不可解な行動の意味が変わる時、僕はそのときの自分の狭量さを恥じると同時に、人間という生き物がとても愛おしくなって幸せな気持ちになる。
 僕はずいぶんトルストイを避けてきた。僕に愛の意味を教えてくれた人は、能天気な博愛主義者へと変わっていた。自分の人生にとても辛い別れがあったし、また去年は地震もあった。そんな中で愛など信じられるか、と本気で思った。今でもそうだ。愛など何の当てにもならない。自分がどれだけ相手を愛そうが、気持ちが完全に通じ合うことなどない。
 たぶんトルストイもそうだったのだ。『終着駅 トルストイ最後の旅』を見てはっと気づいた。人類愛を唱えきた彼も、愛を信じ愛に破れた人なのだ。アンナカレーニナがそうだったように。トルストイの愛はくまなく人々の上に降り注ぐ。しかし、降り注いだ愛は現実に触れ、形を変えていく。妻のソフィアには人類愛が家族の愛を無視したただの傲慢になり、トルストイ主義者のウラジミールには形骸化した観念と成り果てる。
 彼は常に現実に苦しめられながらも、決して理想を捨てることはなく、のたれ死ぬことを選んだ。家族への愛を十分に持っていたにもかかわらず彼は理想の愛のためにのたれ死ぬのだ。彼は能天気な博愛主義者などではなく、最も現実に苦しめられた人であって、その中で愛を信じていたのだ。
 僕の中のトルストイに新たな光を当ててくれたこの映画に感謝したい。

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