2013年4月17日水曜日

ロックの身体を巡る冒険(RadioheadからAriel pink、Mac Demarcoまで)


 (以下の文章は、大学時代のサークル仲間である梅沢氏が編集長を務めるミニコミに載る予定です。スーパーガンバリゴールキーパーズというややこしい名前の童貞ロックバンドのライヴ会場で入手可能なのだと思います。当初の目的地と実際の到着地が異なる、そんな冒険的な、いや迷走的な文章です。ブルース・リーの名言“ Don't think. Feel! ”を題辞として掲げます。)

 先日、世界的に有名なあるチェロ奏者のソロコンサートに行ってきた。幸運にも、私の座席は前から2列目の中央であったので、間近で演奏を堪能することができた。私はチェロという楽器はおろか、クラシック音楽全般に関して門外漢ではあるが、終演後の演奏者の満面の笑みと耳をつんざくほどの拍手と私の胸の高鳴りが、これは素晴らしい演奏だったのだと私に教えていた。
 ステージ上にいるのは、短い白髪頭の背の高いチェロ奏者と、大きなチェロだけだ。マイクもアンプもそこにはない。にもかかわらず、チェロの低音はアンプリファイされたベース以上に太く雄弁であり、高音もまた負けず劣らず力強く、突き刺さるように鋭い。チェロは非常に振れ幅の大きい楽器だと感じた。チェロ1つで全てが始まり、全ては完結する。
 チェリストはその見事な楽器を言葉のように操る。彼は繊細で正確な運指で美しい詩を詠い上げたかと思えば、次の瞬間には力強く弦を叩き、荒馬のような吠え声をあげ迫力ある物語を現出する。彼がチェロの一部であるのか、チェロが彼の一部であるのか、だんだん分からなくなってくる。それほどに両者は互いに呼応し、融け合い、あたかも一つの身体と化していた。
 
 2012年のフジロックで目撃したレディオヘッドのライヴは凄まじいもので、私の脳裏にずっと焼き付いている。それはロックンロールから始まり、ロックへと名前を変えて連綿と続く歴史の、1つの極地だった。『KID A』以降の曲はもちろんのこと、過去の名曲である“Planet Telex”は彼らのギターロックバンドとしての過去と、エレクトロ路線の現在とが有機的に行き来し、立体像を作り上げていた。指先の微妙なタッチでギターの音色を変えるように、彼らはエレクトロニカを自分の細胞の1つであるかのように扱っていた。テクノロジーの進化により誰でも簡単にプログラミングなどを使えば、複雑なリズムを鳴らすことができるとはいえ、その核には常に1つの身体がなければならない。それが無い音楽はどれだけ複雑にしようが、アンプを積み上げようが心の芯に触れることはない。
 トム・ヨークの別プロジェクトであるアトムズフォーピースの新作ビデオを見たことがあるだろうか。彼はその中でひとりの少女と奇怪な舞踏を披露している。スーツを着た2人は身体の全ての筋肉、関節を使って音楽を表現する。トムの奇怪なダンスはファンの間では有名だ。これは私の知る限り、ライヴで『KID A』収録の“idioteque”を披露するときに初めて認められた。曲が最高潮の盛り上がりを見せるブレイク部分で、彼は腕を四方八方にムチのように投げ出しながら跳ね回り続ける。


 トム・ヨークはバンドがエレクトロニカを導入しはじめた辺りから、自己をそこに馴染ませるために、身体を解放し、強く柔軟に保つ必要に迫られたのだと私は思う。その結果、彼はPVで見せたような前衛的な舞踏に行き着いたのだ。だから、彼の変な踊りを見て笑ってはいけない。ここにはたぶん、彼の切実な音楽への追究心が現れている。
 単純に、レディオヘッドのような世界ツアーをこなすスタジアムバンドは、否が応でも身体の鍛錬に取り組まなければならないということもあるだろう。しかし、音楽をより複雑にし、なおかつそれを有機的なものにするためには、身体性を高めることが不可欠でるように思われる。
 ロックは健康優良児だけのものではない。みんながみんなレディオヘッドであるわけではなく、ビヨンセかイギーポップを目指さなきゃいけないわけじゃない。それは無理な話だ。私など、5kmのランニングで膝をやっちまうような身体的な弱者である。ビヨンセになれるわけがない。
 マッチョになろうとして、なれない奴もいる。いつも自らの身体的限界を意識していなければならない人間がいる。そういった人間を惹きつけるのは、同じようにどこにでもいる普通の連中ということになる。例えば、ピンク色のロン毛とひょろひょろした生白い手足でステージを動き回り、素っ頓狂な声で歌い、ギラギラ銀色に光るジャケットに身を包んだ男。
 
 
 私が2年前に渋谷のライヴハウスで目撃したステージ上には、まさに前述したような姿でステージをアライグマのようにうろうろするアリエルピンクホーンテッドグラフィティーというミュージシャンの姿があった。とてもおかしく、哀しく、かっこいいライヴだった。彼はステージ上でひょろひょろで弱そうな身体を隠さずに、懸命にパフォーマンスをする。ジャンプしてもあんまり高く飛べない。歌声もか細い。自らの限界を惜しげもなく見せるその姿は、私におかしい気持ちではなくて、もっと切実なものを感じさせる。
 アリエルピンクの音楽は名もなき亡霊、記憶のなかだけにある都市の風景のようで、彼の手にかかれば、ポップミュージックの歴史の大きな流れのなかに消えていったメロディーは見事に復活し、高揚の入り交じった安心感や、聴いたことがないけれど聴いたことがあるような懐かしい気持ちを抱かせる。別にそれは未来に突き進むような音楽ではなく、かといってただの懐古趣味でもない。
 
 マック・デマルコは朝起きて、まずベッドでタバコを吸う。それからシャワーを浴びる。昼はたぶんジンジャエールを飲んで、夜はパーティー。地元の小さなクラブで地元の友人たちを前に、気取る訳でもなくニコニコと白い歯を見せながらギターを鳴らす。デマルコはアリエルピンクと同様に、自分の身体から遠ざからないとても正直な音楽を奏で、そして十分に楽しんでいる。彼は22歳のカナダ人で、2012年にキャプチャードトラックから『Rock and Roll night club』、『2』をリリースしている宅録出身のアーティストだ。
 Seattleと書かれた破れたキャップを被って、下は地味なネルシャツ。ギターはゴミ捨て場から拾ってきたのかと疑いたくなるようなボロボロ加減。なぜかわからないがボディーのほとんどが打ち付けられた四角い鉄板で覆われている。MUSEのマシュー・ベラミーそのギターを見たらどう思うだろう。おそらく「なんだい、あの鉄板は?あそこにはコルグのカオスパッドを入れるべきだよ。」と真剣な表情で言うだろう。
 そのサウンドは、フィーリーズがもっと気を抜かしたような、マークボランからエゴを取り去ってスローモーションにしたような感じだ。まあ、聴いてみてくれ。ギターは調子はずれで、ふにゃふにゃしている。実際にギターのピッチをわざと下げているとインタビューで語っていた。歌声もギターと同様に気怠く、寝起きにベッドでタバコ吹かしながら唄ってるみたいだ。全体に若干のリヴァーヴがかかっているが、それも彼のサウンドに厚みをもたらすというよりは、もっとへなへなにすることに一役買っている。

 
 デマルコが最も尊敬するミュージシャンに挙げているのが、ジョナサン・リッチマンである。リッチマンは76年にThe Modern Loversのフロントマンとしてデビューしている。このバンドはVelvet Undergroundに影響された直線的でシンプルなサウンドを特徴としており、ラモーンズがパンクの父なら、彼らはパンクのお祖父ちゃんになるだろうか。リッチマンはその後、パンクやガレージから離れ、大きなセミアコギターを抱えてニコニコ笑い、ときにはギターそっちのけで踊りながら、アイスクリーム売りのこと、レズビアンバーに行ったときの話、大好きなパブロピカソのことについての歌などを唄うようになる。何の怒りもなく、イノセントで、気分よく歌い上げられる彼のロックンロールは、初期の何の汚れも無かったダニエル・ジョンストン、そしてニルヴァーナのカートコバーンといった90年代の代表的な人物たちにまで波及し、現在のアリエルピンクやマック・デマルコに少なからぬ影響を与えたように思われる。

 
 リッチマンの精神は、マック・デマルコの中にも確かに息づいている。向上心、自己顕示欲といったものからは無縁の音楽。彼は3万人収容のスタジアムでやることは1度もないかもしれない。でもそれでもいい。
 ハーモニーコリンの映画『ガンモ』にはこの空気をとてもよく表現しているシーンがあるから見てみてほしい。バディー・ホリーの“Every day”がBGMで流れるなか、少女たちがベッドの上でぴょんぴょん跳ね回って遊んでいる。彼女らは時間が消失した空間のなかに閉じ込められているようだ。明るい未来はないように見える。それにも関わらず、この映画に出てくる子供たちは非常に幸福そうだ。何の変哲も無い場面だが、これは90年代以降の空気を見事に表現している。ベッドの上で跳ねても、少女たちはどこにも行けない。でも、どこにも行けなくてもいい。次回はこの時間を失った世界について論じたいと考えている。 
 
 MTVからは今日もワンダイレクションの曲が流れ、Facebook上のあの子たちは、自分の日常がどれだけ華やかな非日常に満ち満ちているのかを競っている。フェスのヘッドライナーは今年もローリングストーンズ。世界は私と無関係のところで進んでいる。だが、アリエルピンクやマック・デマルコの曲を聴いているとそれでもいいかなと思えてくる。日常を偽る必要はないし、蔑む必要はない。“毎日はどんどん過ぎ去る。ジェットコースターより早く。でも、きっとその先には君の愛が待っている”まあこんな風に、私は気楽にバディー・ホリーを聴きながら自分の生白い身体を見つめて、うだつの上がらない毎日を走り続けようと思う。
  

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