2012年6月21日木曜日
2012年6月20日水曜日
POP ETC再考 レディー・ガガに対してインディーズが打ち立てるべきもの
(この文章の一部はWeb magazine Qeticさんに載ったものです。再掲します。)
世界規模で認知されるということは、それだけ悪意に身を晒す危険が増すということでもある。ザ・モーニング・ベンダーズとして迎えた世界ツアーがスタートした時、バンド名の一部“Bender”がイギリス等のヨーロッパでは同性愛者を意味するスラングであることを指摘される。“All day daylight”で世界中に生きる人々との繋がりを歌った彼らはその事実にショックを受け、今作のレコーディングが終わった時点で改名することを決めた。
POP ETC、この新しい名前は彼らの音楽性を十分に説明している。全ジャンルを網羅する普遍的な“POP”という音楽、そしてその後に“ETC”(エトセトラ)という曖昧な広がりを残す言葉が続くということ。彼らの理想がはっきりと表れた名前だ。
セルフタイトルを冠した今作で、その理想は究極の形で鳴り響く。ピッチフォークでbest new musicに選ばれ、snoozer誌の2010年度ベストアルバム1位を獲得した前作『BIG ECHO』のフィルスペクターやビーチボーイズといった50~60年代のサウンドは跡形もない。それは今作の制作陣にデンジャーマウス、そしてカニエウェストのプロデューサーとして知られるアンドリュー・ドーソンらが参加していることからも分かるだろう。1. “new life”の冒頭でドラムマシンがゆっくりと暖かいビートを刻んでいくところで、これは両親がラジオでかけていた、彼らの原点である80年代にリスナーを連れていく。全体を貫くブライトなシンセとチープなドラムマシン、オートチューンやコーラスで飾られたクリスの歌声を聴きながら、マドンナ、プリンスといったポップスターや、ボーイズⅡメン、マライアキャリーといったR&Bのアーティストたちを思い浮かべずにはいられない。ただここにノスタルジアへの執着はなく、“I just wanna live it up”「ただ楽しみたいんだ。」とクリスが呟くように、今この瞬間を生きる希望に満ちた光だけがある。
“When everything is gone…”
「全てが消え去った時」、何が残るのだろう。冷たく横たわる死であろうか。いや、全てを包み込み、肯定するような生の感情に満ちた光ではないか。そしてその光こそが3分間だけかもしれないが、人々を繋ぐポップミュージックなのだ。このアルバムを聴いて最初に思い浮かべたのは過去の記憶であり、その後には記憶すらも遠のいていき、ただ眩い光の行き届いた空間が見えてくる。リヴァーブやローファイといった霧のない、人々を繋ぐはっきりとした光だけが広がる空間。それが『POP ETC』の行き着いた場所なのだ。
「全てが消え去った時」、何が残るのだろう。冷たく横たわる死であろうか。いや、全てを包み込み、肯定するような生の感情に満ちた光ではないか。そしてその光こそが3分間だけかもしれないが、人々を繋ぐポップミュージックなのだ。このアルバムを聴いて最初に思い浮かべたのは過去の記憶であり、その後には記憶すらも遠のいていき、ただ眩い光の行き届いた空間が見えてくる。リヴァーブやローファイといった霧のない、人々を繋ぐはっきりとした光だけが広がる空間。それが『POP ETC』の行き着いた場所なのだ。
(Sho Takeuchi)
こういう文章を僕は書いたわけだが、スペースの都合上、また自分の中でも結論が出ないということもあり、書かなかったことがある。それはこのアルバムが80年代を参照してだけではなく、レディー・ガガ、ケイティー・ペリー、ジャスティン・ビーバー、リアーナといったメインストリームのポップスターたちに目配せしているということなのである。クリス・チューはインタビューでもケイティー・ペリーやジャスティンのファンであると公言していることもあるし、また彼らがポップミュージックを標榜しているということもあり、必然的に現代のポップスターたちを避けて通ることはできない話なのである。
ポップミュージックをどう定義するか。人それぞれロックの意味が違うのと同じで明確にすることは難しい。だが、たぶん多くの人がポップミュージックが人々をハッピーにし、広く世間に認められるような音楽だという認識があると僕は思っている。実際にPOP ETCの作品はそういった前向きなものだと聴いていて思った。
ただポップミュージックをそういう観点で突き詰めていけば、一番偉いのはさきほど挙げたポップスターたちということになるのではないか。現在レディー・ガガほど世界中の人々に勇気や希望を与えているアーティストがいるだろうか。ケイティー・ペリーのシングルほどド派手で前向きなポップスはあるのだろうか。この水平線にPOP ETCを並べてしまったとき、誰が彼らの音楽を聴こうと思うだろう。結局、インディーズファン以外の普通の若い男女に訴えかけるのはレディー・ガガになってしまう。POP ETCに勝ち目はない。
インディーズロックがポップミュージックへと近づいていった時、結局メインストリームの音楽の前で立ち往生してしまうというジレンマ。僕が思っていることというよりは、もし女子高生に「POP ETCがポップミュージックなら、レディー・ガガと同じなの?」こんな質問を投げかけられた時どう答えるかという自分の中での弁証法みたいなことを今書いている。
ポップミュージックの歴史という水平線だけを眺めた時にはPOP ETCの居場所は用意されていないかもしれない。しかしそこに自分の物語という垂直線を立てることで彼らはかろうじて生き残ると思うのだ。The Smithsがなぜ唯一無二の存在であるのか。それは歴史の視点とは無関係な人間同士の神話があるからだと僕は思う。もし、メインストリームではない人間がポップミュージックをやるのなら、この固有の神話性を目指さなければいけないと思う。
現在、ノスタルジアが流行していることに何の反論もない。心地よい音楽は大歓迎だ。しかし20年後の彼らは人々の記憶に残っているのだろうか。もし、心地よいだけならメインストリームの激流の中に消えていく可能性は高い。ピッチフォークでKINDNESSの新作『World, You Need A Change Of Mind』の評価はあまり良くなかった。70年代のファンク、ディスコは若い世代にとって新鮮だが、音楽評論家からすれば懐古主義と映るのだろう。Kindnessの顔は残念ながら見えないという厳しい評であった。
歴史に名を残すことなど考えていない。ただ自分の最高だと思う音楽をやるだけ。という傾向がインディーズバンドの中であることは確かだろう。これが新世代の価値観だと言われれば、そうだろうなと思う。
POP ETCがやろうとしていることは、ノスタルジアの風潮に反対し、メインストリームとの接点を積極的にもち、それでいてセルアウトしていないようなポップミュージックなのかもしれない。だとしたら、彼らはかなり無謀なことをしていることになる。今のままでは評価されるのは難しいかもしれない。20年後の彼らは尊敬するレディー・ガガやケイティー・ペリーの存在の前に消えている可能性もある。しかし、その容赦ない水平線という激流の中で自分たちの固有の神話を打ち立てることが出来れば、彼らは素晴らしいポップミュージックを作ることになるだろう。僕がPOP ETCだけでなく、他のインディーズアーティストにも求めているところはそこなのだ。かつてモリッシーとジョニー・マーが観衆の前でツイストダンスを踊ったように、超然と歴史の上で振る舞うことを。そのとき、レディー・ガガに売り上げで勝てることはまずないかもしれないが、それでもポップミュージックであることは可能なのだ。「There is a light that never goes out」消えない光を手に入れることができるのだ。
こういう文章を僕は書いたわけだが、スペースの都合上、また自分の中でも結論が出ないということもあり、書かなかったことがある。それはこのアルバムが80年代を参照してだけではなく、レディー・ガガ、ケイティー・ペリー、ジャスティン・ビーバー、リアーナといったメインストリームのポップスターたちに目配せしているということなのである。クリス・チューはインタビューでもケイティー・ペリーやジャスティンのファンであると公言していることもあるし、また彼らがポップミュージックを標榜しているということもあり、必然的に現代のポップスターたちを避けて通ることはできない話なのである。
ポップミュージックをどう定義するか。人それぞれロックの意味が違うのと同じで明確にすることは難しい。だが、たぶん多くの人がポップミュージックが人々をハッピーにし、広く世間に認められるような音楽だという認識があると僕は思っている。実際にPOP ETCの作品はそういった前向きなものだと聴いていて思った。
ただポップミュージックをそういう観点で突き詰めていけば、一番偉いのはさきほど挙げたポップスターたちということになるのではないか。現在レディー・ガガほど世界中の人々に勇気や希望を与えているアーティストがいるだろうか。ケイティー・ペリーのシングルほどド派手で前向きなポップスはあるのだろうか。この水平線にPOP ETCを並べてしまったとき、誰が彼らの音楽を聴こうと思うだろう。結局、インディーズファン以外の普通の若い男女に訴えかけるのはレディー・ガガになってしまう。POP ETCに勝ち目はない。
インディーズロックがポップミュージックへと近づいていった時、結局メインストリームの音楽の前で立ち往生してしまうというジレンマ。僕が思っていることというよりは、もし女子高生に「POP ETCがポップミュージックなら、レディー・ガガと同じなの?」こんな質問を投げかけられた時どう答えるかという自分の中での弁証法みたいなことを今書いている。
ポップミュージックの歴史という水平線だけを眺めた時にはPOP ETCの居場所は用意されていないかもしれない。しかしそこに自分の物語という垂直線を立てることで彼らはかろうじて生き残ると思うのだ。The Smithsがなぜ唯一無二の存在であるのか。それは歴史の視点とは無関係な人間同士の神話があるからだと僕は思う。もし、メインストリームではない人間がポップミュージックをやるのなら、この固有の神話性を目指さなければいけないと思う。
現在、ノスタルジアが流行していることに何の反論もない。心地よい音楽は大歓迎だ。しかし20年後の彼らは人々の記憶に残っているのだろうか。もし、心地よいだけならメインストリームの激流の中に消えていく可能性は高い。ピッチフォークでKINDNESSの新作『World, You Need A Change Of Mind』の評価はあまり良くなかった。70年代のファンク、ディスコは若い世代にとって新鮮だが、音楽評論家からすれば懐古主義と映るのだろう。Kindnessの顔は残念ながら見えないという厳しい評であった。
歴史に名を残すことなど考えていない。ただ自分の最高だと思う音楽をやるだけ。という傾向がインディーズバンドの中であることは確かだろう。これが新世代の価値観だと言われれば、そうだろうなと思う。
POP ETCがやろうとしていることは、ノスタルジアの風潮に反対し、メインストリームとの接点を積極的にもち、それでいてセルアウトしていないようなポップミュージックなのかもしれない。だとしたら、彼らはかなり無謀なことをしていることになる。今のままでは評価されるのは難しいかもしれない。20年後の彼らは尊敬するレディー・ガガやケイティー・ペリーの存在の前に消えている可能性もある。しかし、その容赦ない水平線という激流の中で自分たちの固有の神話を打ち立てることが出来れば、彼らは素晴らしいポップミュージックを作ることになるだろう。僕がPOP ETCだけでなく、他のインディーズアーティストにも求めているところはそこなのだ。かつてモリッシーとジョニー・マーが観衆の前でツイストダンスを踊ったように、超然と歴史の上で振る舞うことを。そのとき、レディー・ガガに売り上げで勝てることはまずないかもしれないが、それでもポップミュージックであることは可能なのだ。「There is a light that never goes out」消えない光を手に入れることができるのだ。
2012年6月18日月曜日
ミッドナイト・イン・パリ
1920年代のパリはゴールデンエイジと言われる。アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイス、T.S.エリオット、ピカソ、ダリ、ブニュエルといった天才たちが勢揃いしていた。そしてガートルード・スタインの有名なサロンに、助言を求めて多くの若い芸術家たちが集まった。
中世の人々がギリシャ時代に、近代の人々がルネッサンスに憧れたように、1920年代のパリは現在でも多くのアーティストにとっての憧れの地である。ヘミングウェイは当時のパリを「moveable feast(移動祝祭日)」と呼んだ。記憶を辿れば、どんな時代、場所にいようがパリは人々に喜びを与えるのだ。
人々は自分だけの「パリ」、ノスタルジックな美しい過去を持っているのかもしれない。そしてウディ・アレンの映画を見ることとはまさに僕にとっては美しい過去に戻ることでもある。オープニングで流れるニューオリンズジャズを聴きながら、クレジットに"Jack Rollins"(Charles H. Joffeは2008年に亡くなった。)というおなじみのプロデューサーの名前が映し出された時、もう僕は現在にいながらノスタルジーの世界にいるのである。
処女小説を執筆中のギル(オーウェン・ウィルソン)は、恋人のイネス(レイチェル・マクアダムズ)とパリへ旅行する。ギルにとってパリは夢の場所であったが、旅先には芸術を全く意に介さないイネスとその両親や、スノッブで嫌みたらしい友人のポール(マイケル・シーン)といったウディ・アレン作品には必ず登場する「お高くとまった人たち」が出てきて、彼の邪魔をするのだ。
ある日、酔っぱらったギルが真夜中のパリをぶらついていると、0時の鐘とともに目の前にアンティークカーが現れる。中には1920年代風の男女が乗っていて、一緒に来るように誘うのだった。連れてこられたパーティーにはスコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダ、コール・ポーターと名乗る人物がいて、しかも主催者はジャン・コクトーだという。ギルは信じられない気持ちのまま、フィッツジェラルド夫妻とバーへ行く。そこにはなんとヘミングウェイが。どうやら夢の世界へ来てしまったことに気づいた彼は、執筆中の小説をヘミングウェイに読んでほしいと頼む。パパ(ヘミングウェイの愛称)はギルの申し出を拒否するが、代わりにガートルード・スタインを紹介するというのだった。
映画とは一種の夢である。それは現実世界とは全く関係ない世界を構築するのだ。ギルは映画の中で夢を見、僕らは彼の夢の中でまた夢見る。夢の世界は長くは続かず、ギルは朝になるとまた嫌みな連中がいる現実世界へと戻っている。次の夜もイネスを誘って行ってみようとするが、彼女は結局あきれて帰ってしまう。イネスという現実は遠のき、また夢の世界がギルの元に近づいてくる。ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)のサロンに赴いてピカソと出会い、ダリ(エイドリアン・ブロディ)、マン・ルイ、ブニュエルといったシュルレアリストたちにも遭遇する。ウディ・アレンは彼らを戯画化し、笑いたっぷりに描く。ウディは人を皮肉る天才であるが、決して馬鹿にした態度ではなく、愛情を込めて人々を見つめている。偉人たちを演じる役にはキャシー・ベイツやエイドリアン・ブロディのようなベテランから、『Scott Pilgrim vs. the World』や『ミルク』に出演した若手のアリソン・ピルなど幅広い年齢層、キャリアの俳優たちが出ていて、映画ファンを飽きさせない。
ピカソの愛人であったアドリアナ(マリオン・コティアール)にギルは恋をする。彼がアドリアナにイネスのネックレスをプレゼントしようとすることで、昼のパリという現実が真夜中のパリという超現実の世界に浸食されていき支障が出始める。ギルはアドリアナへの想いを告白するが、彼らは1920年代のパリからアドリアナにとってのゴールデンエイジである1890年代のパリへと更に過去を遡っていく。ギルは誰にとっても過去は美しく、現在は醜く見えてしまうのだと気づかされるのだった。
"古いジョークがある。キャッツキル山地の避暑地に来た2人の年増の女性の一方がこう言った、「ねえ、ここの食事は本当にひどいわ。」そしてもう1人が「ええ、そうね。しかも量もとっても少ないわ。」ええ、これは僕の人生に対する考え方です。人生は悲しく、惨めで、苦しく、不幸でいっぱいで、すぐに過ぎ去ってしまう" (『アニーホール』)
ウディは一貫して人生はひどいものだと言い続けてきた。でも、それは逆説的に人生を楽しくするおまじないである。ウディは『ボニー、俺も男だ』でボガードに憧れるが決して彼になることはできなかった。映画の中でウディはいつもセックスしようとすればなかなか窓が閉まらなかったり、相手がとんでもない変態だったり、カッコつけて脚を組もうとすれば目の前のテーブルをひっくり返してきた。
彼は映画の中でひたすら惨めさを笑い飛ばすことで、人生を肯定してきた。惨めさを認めることは、現状をありのまま受け止めることに繋がる。まあ、人生なんてこんなもんさという。
ギルは真夜中のパリに住むことは結局できなかった。昼のパリには雨が降っている。でも、今の彼には雨の日の散歩が大好きで、古いレコードを良く知っている新しい恋人が側にいる。自分を肯定してくれる小さな世界があるのだ。そういえば、劇中で流れるコール・ポーターの"Let's do it"は『Everything You Always Wanted to Know About Sex * But Were Afraid to Ask 』 でも使われていた。やっぱり気難しい顔をしながらもウディの作品にはずっと人生の肯定、人への愛情がずっとあるんだろう。映画館を出て、僕はウディ・アレンの過去の作品を思い出しながら帰った。頭の中にはコール・ポーターが"Let's fall in love"と繰り返し歌っている。ああそうだ、僕にとってウディ・アレンの映画の中の世界こそ、僕をいつでも楽しませてくれる"Moveable Feast"(移動祝祭日)なのだと思った。
2012年6月14日木曜日
2012年6月13日水曜日
『終着駅 トルストイ最後の旅』
『人生論』、『アンナカレーニナ』を学生時代に読んだ。特に『人生論』は愛について、生きる意味について多く教えてくれた。月日が過ぎて、僕の中でトルストイは過去の物になってしまった。ただ、忘れたわけではなく、机の引き出しを開けるたびに目に入るけれど手に取ることはしない思い出の品みたいなものだった。
過去の物だと思っていたものが、再び新しい価値観を帯びて自分の元に現れると、何だか不思議な気持ちになる。昔から知っている人、かつて愛した人で一度は憎んで馬鹿にして、相手にしなくなった人との些細な記憶が、全く違う現在の光を浴びて、記憶の中に溜まっていた埃までもがキラキラした美しいものに変わり、あの人の流した涙、怒りの言葉、不可解な行動の意味が変わる時、僕はそのときの自分の狭量さを恥じると同時に、人間という生き物がとても愛おしくなって幸せな気持ちになる。
僕はずいぶんトルストイを避けてきた。僕に愛の意味を教えてくれた人は、能天気な博愛主義者へと変わっていた。自分の人生にとても辛い別れがあったし、また去年は地震もあった。そんな中で愛など信じられるか、と本気で思った。今でもそうだ。愛など何の当てにもならない。自分がどれだけ相手を愛そうが、気持ちが完全に通じ合うことなどない。
たぶんトルストイもそうだったのだ。『終着駅 トルストイ最後の旅』を見てはっと気づいた。人類愛を唱えきた彼も、愛を信じ愛に破れた人なのだ。アンナカレーニナがそうだったように。トルストイの愛はくまなく人々の上に降り注ぐ。しかし、降り注いだ愛は現実に触れ、形を変えていく。妻のソフィアには人類愛が家族の愛を無視したただの傲慢になり、トルストイ主義者のウラジミールには形骸化した観念と成り果てる。
彼は常に現実に苦しめられながらも、決して理想を捨てることはなく、のたれ死ぬことを選んだ。家族への愛を十分に持っていたにもかかわらず彼は理想の愛のためにのたれ死ぬのだ。彼は能天気な博愛主義者などではなく、最も現実に苦しめられた人であって、その中で愛を信じていたのだ。
僕の中のトルストイに新たな光を当ててくれたこの映画に感謝したい。
2012年6月10日日曜日
2012年6月8日金曜日
2012年6月5日火曜日
Beastie Boys - Rock Hard
リック・ルービン(当時はNYUの学生だった)は、ラップというよりは歪んだベースループとハンドクラップ、いたずら電話の会話からなるシングル"Cooky Puss"を聴いて才能を感じ、"白いラッパー"としてビースティーボーイズを売り出そうとする。リックのコネクションによって、彼らはまだ出来たばかりのデフジャムと契約する。リックがプロデューサーとなり、最初に録ったのがこの"Rock Hard"であった。AC/DCの名曲"Back In Black"のリフをサンプリングしている。後にBoogie Down Productionsもサンプリングしているが、ビースティーのはまさに初期衝動とも言える荒さが目立つ。
2012年6月3日日曜日
登録:
投稿 (Atom)