2012年6月18日月曜日
ミッドナイト・イン・パリ
1920年代のパリはゴールデンエイジと言われる。アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイス、T.S.エリオット、ピカソ、ダリ、ブニュエルといった天才たちが勢揃いしていた。そしてガートルード・スタインの有名なサロンに、助言を求めて多くの若い芸術家たちが集まった。
中世の人々がギリシャ時代に、近代の人々がルネッサンスに憧れたように、1920年代のパリは現在でも多くのアーティストにとっての憧れの地である。ヘミングウェイは当時のパリを「moveable feast(移動祝祭日)」と呼んだ。記憶を辿れば、どんな時代、場所にいようがパリは人々に喜びを与えるのだ。
人々は自分だけの「パリ」、ノスタルジックな美しい過去を持っているのかもしれない。そしてウディ・アレンの映画を見ることとはまさに僕にとっては美しい過去に戻ることでもある。オープニングで流れるニューオリンズジャズを聴きながら、クレジットに"Jack Rollins"(Charles H. Joffeは2008年に亡くなった。)というおなじみのプロデューサーの名前が映し出された時、もう僕は現在にいながらノスタルジーの世界にいるのである。
処女小説を執筆中のギル(オーウェン・ウィルソン)は、恋人のイネス(レイチェル・マクアダムズ)とパリへ旅行する。ギルにとってパリは夢の場所であったが、旅先には芸術を全く意に介さないイネスとその両親や、スノッブで嫌みたらしい友人のポール(マイケル・シーン)といったウディ・アレン作品には必ず登場する「お高くとまった人たち」が出てきて、彼の邪魔をするのだ。
ある日、酔っぱらったギルが真夜中のパリをぶらついていると、0時の鐘とともに目の前にアンティークカーが現れる。中には1920年代風の男女が乗っていて、一緒に来るように誘うのだった。連れてこられたパーティーにはスコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダ、コール・ポーターと名乗る人物がいて、しかも主催者はジャン・コクトーだという。ギルは信じられない気持ちのまま、フィッツジェラルド夫妻とバーへ行く。そこにはなんとヘミングウェイが。どうやら夢の世界へ来てしまったことに気づいた彼は、執筆中の小説をヘミングウェイに読んでほしいと頼む。パパ(ヘミングウェイの愛称)はギルの申し出を拒否するが、代わりにガートルード・スタインを紹介するというのだった。
映画とは一種の夢である。それは現実世界とは全く関係ない世界を構築するのだ。ギルは映画の中で夢を見、僕らは彼の夢の中でまた夢見る。夢の世界は長くは続かず、ギルは朝になるとまた嫌みな連中がいる現実世界へと戻っている。次の夜もイネスを誘って行ってみようとするが、彼女は結局あきれて帰ってしまう。イネスという現実は遠のき、また夢の世界がギルの元に近づいてくる。ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)のサロンに赴いてピカソと出会い、ダリ(エイドリアン・ブロディ)、マン・ルイ、ブニュエルといったシュルレアリストたちにも遭遇する。ウディ・アレンは彼らを戯画化し、笑いたっぷりに描く。ウディは人を皮肉る天才であるが、決して馬鹿にした態度ではなく、愛情を込めて人々を見つめている。偉人たちを演じる役にはキャシー・ベイツやエイドリアン・ブロディのようなベテランから、『Scott Pilgrim vs. the World』や『ミルク』に出演した若手のアリソン・ピルなど幅広い年齢層、キャリアの俳優たちが出ていて、映画ファンを飽きさせない。
ピカソの愛人であったアドリアナ(マリオン・コティアール)にギルは恋をする。彼がアドリアナにイネスのネックレスをプレゼントしようとすることで、昼のパリという現実が真夜中のパリという超現実の世界に浸食されていき支障が出始める。ギルはアドリアナへの想いを告白するが、彼らは1920年代のパリからアドリアナにとってのゴールデンエイジである1890年代のパリへと更に過去を遡っていく。ギルは誰にとっても過去は美しく、現在は醜く見えてしまうのだと気づかされるのだった。
"古いジョークがある。キャッツキル山地の避暑地に来た2人の年増の女性の一方がこう言った、「ねえ、ここの食事は本当にひどいわ。」そしてもう1人が「ええ、そうね。しかも量もとっても少ないわ。」ええ、これは僕の人生に対する考え方です。人生は悲しく、惨めで、苦しく、不幸でいっぱいで、すぐに過ぎ去ってしまう" (『アニーホール』)
ウディは一貫して人生はひどいものだと言い続けてきた。でも、それは逆説的に人生を楽しくするおまじないである。ウディは『ボニー、俺も男だ』でボガードに憧れるが決して彼になることはできなかった。映画の中でウディはいつもセックスしようとすればなかなか窓が閉まらなかったり、相手がとんでもない変態だったり、カッコつけて脚を組もうとすれば目の前のテーブルをひっくり返してきた。
彼は映画の中でひたすら惨めさを笑い飛ばすことで、人生を肯定してきた。惨めさを認めることは、現状をありのまま受け止めることに繋がる。まあ、人生なんてこんなもんさという。
ギルは真夜中のパリに住むことは結局できなかった。昼のパリには雨が降っている。でも、今の彼には雨の日の散歩が大好きで、古いレコードを良く知っている新しい恋人が側にいる。自分を肯定してくれる小さな世界があるのだ。そういえば、劇中で流れるコール・ポーターの"Let's do it"は『Everything You Always Wanted to Know About Sex * But Were Afraid to Ask 』 でも使われていた。やっぱり気難しい顔をしながらもウディの作品にはずっと人生の肯定、人への愛情がずっとあるんだろう。映画館を出て、僕はウディ・アレンの過去の作品を思い出しながら帰った。頭の中にはコール・ポーターが"Let's fall in love"と繰り返し歌っている。ああそうだ、僕にとってウディ・アレンの映画の中の世界こそ、僕をいつでも楽しませてくれる"Moveable Feast"(移動祝祭日)なのだと思った。
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