(この文章の一部はWeb magazine Qeticさんに載ったものです。再掲します。)
世界規模で認知されるということは、それだけ悪意に身を晒す危険が増すということでもある。ザ・モーニング・ベンダーズとして迎えた世界ツアーがスタートした時、バンド名の一部“Bender”がイギリス等のヨーロッパでは同性愛者を意味するスラングであることを指摘される。“All day daylight”で世界中に生きる人々との繋がりを歌った彼らはその事実にショックを受け、今作のレコーディングが終わった時点で改名することを決めた。
POP ETC、この新しい名前は彼らの音楽性を十分に説明している。全ジャンルを網羅する普遍的な“POP”という音楽、そしてその後に“ETC”(エトセトラ)という曖昧な広がりを残す言葉が続くということ。彼らの理想がはっきりと表れた名前だ。
セルフタイトルを冠した今作で、その理想は究極の形で鳴り響く。ピッチフォークでbest new musicに選ばれ、snoozer誌の2010年度ベストアルバム1位を獲得した前作『BIG ECHO』のフィルスペクターやビーチボーイズといった50~60年代のサウンドは跡形もない。それは今作の制作陣にデンジャーマウス、そしてカニエウェストのプロデューサーとして知られるアンドリュー・ドーソンらが参加していることからも分かるだろう。1. “new life”の冒頭でドラムマシンがゆっくりと暖かいビートを刻んでいくところで、これは両親がラジオでかけていた、彼らの原点である80年代にリスナーを連れていく。全体を貫くブライトなシンセとチープなドラムマシン、オートチューンやコーラスで飾られたクリスの歌声を聴きながら、マドンナ、プリンスといったポップスターや、ボーイズⅡメン、マライアキャリーといったR&Bのアーティストたちを思い浮かべずにはいられない。ただここにノスタルジアへの執着はなく、“I just wanna live it up”「ただ楽しみたいんだ。」とクリスが呟くように、今この瞬間を生きる希望に満ちた光だけがある。
“When everything is gone…”
「全てが消え去った時」、何が残るのだろう。冷たく横たわる死であろうか。いや、全てを包み込み、肯定するような生の感情に満ちた光ではないか。そしてその光こそが3分間だけかもしれないが、人々を繋ぐポップミュージックなのだ。このアルバムを聴いて最初に思い浮かべたのは過去の記憶であり、その後には記憶すらも遠のいていき、ただ眩い光の行き届いた空間が見えてくる。リヴァーブやローファイといった霧のない、人々を繋ぐはっきりとした光だけが広がる空間。それが『POP ETC』の行き着いた場所なのだ。
「全てが消え去った時」、何が残るのだろう。冷たく横たわる死であろうか。いや、全てを包み込み、肯定するような生の感情に満ちた光ではないか。そしてその光こそが3分間だけかもしれないが、人々を繋ぐポップミュージックなのだ。このアルバムを聴いて最初に思い浮かべたのは過去の記憶であり、その後には記憶すらも遠のいていき、ただ眩い光の行き届いた空間が見えてくる。リヴァーブやローファイといった霧のない、人々を繋ぐはっきりとした光だけが広がる空間。それが『POP ETC』の行き着いた場所なのだ。
(Sho Takeuchi)
こういう文章を僕は書いたわけだが、スペースの都合上、また自分の中でも結論が出ないということもあり、書かなかったことがある。それはこのアルバムが80年代を参照してだけではなく、レディー・ガガ、ケイティー・ペリー、ジャスティン・ビーバー、リアーナといったメインストリームのポップスターたちに目配せしているということなのである。クリス・チューはインタビューでもケイティー・ペリーやジャスティンのファンであると公言していることもあるし、また彼らがポップミュージックを標榜しているということもあり、必然的に現代のポップスターたちを避けて通ることはできない話なのである。
ポップミュージックをどう定義するか。人それぞれロックの意味が違うのと同じで明確にすることは難しい。だが、たぶん多くの人がポップミュージックが人々をハッピーにし、広く世間に認められるような音楽だという認識があると僕は思っている。実際にPOP ETCの作品はそういった前向きなものだと聴いていて思った。
ただポップミュージックをそういう観点で突き詰めていけば、一番偉いのはさきほど挙げたポップスターたちということになるのではないか。現在レディー・ガガほど世界中の人々に勇気や希望を与えているアーティストがいるだろうか。ケイティー・ペリーのシングルほどド派手で前向きなポップスはあるのだろうか。この水平線にPOP ETCを並べてしまったとき、誰が彼らの音楽を聴こうと思うだろう。結局、インディーズファン以外の普通の若い男女に訴えかけるのはレディー・ガガになってしまう。POP ETCに勝ち目はない。
インディーズロックがポップミュージックへと近づいていった時、結局メインストリームの音楽の前で立ち往生してしまうというジレンマ。僕が思っていることというよりは、もし女子高生に「POP ETCがポップミュージックなら、レディー・ガガと同じなの?」こんな質問を投げかけられた時どう答えるかという自分の中での弁証法みたいなことを今書いている。
ポップミュージックの歴史という水平線だけを眺めた時にはPOP ETCの居場所は用意されていないかもしれない。しかしそこに自分の物語という垂直線を立てることで彼らはかろうじて生き残ると思うのだ。The Smithsがなぜ唯一無二の存在であるのか。それは歴史の視点とは無関係な人間同士の神話があるからだと僕は思う。もし、メインストリームではない人間がポップミュージックをやるのなら、この固有の神話性を目指さなければいけないと思う。
現在、ノスタルジアが流行していることに何の反論もない。心地よい音楽は大歓迎だ。しかし20年後の彼らは人々の記憶に残っているのだろうか。もし、心地よいだけならメインストリームの激流の中に消えていく可能性は高い。ピッチフォークでKINDNESSの新作『World, You Need A Change Of Mind』の評価はあまり良くなかった。70年代のファンク、ディスコは若い世代にとって新鮮だが、音楽評論家からすれば懐古主義と映るのだろう。Kindnessの顔は残念ながら見えないという厳しい評であった。
歴史に名を残すことなど考えていない。ただ自分の最高だと思う音楽をやるだけ。という傾向がインディーズバンドの中であることは確かだろう。これが新世代の価値観だと言われれば、そうだろうなと思う。
POP ETCがやろうとしていることは、ノスタルジアの風潮に反対し、メインストリームとの接点を積極的にもち、それでいてセルアウトしていないようなポップミュージックなのかもしれない。だとしたら、彼らはかなり無謀なことをしていることになる。今のままでは評価されるのは難しいかもしれない。20年後の彼らは尊敬するレディー・ガガやケイティー・ペリーの存在の前に消えている可能性もある。しかし、その容赦ない水平線という激流の中で自分たちの固有の神話を打ち立てることが出来れば、彼らは素晴らしいポップミュージックを作ることになるだろう。僕がPOP ETCだけでなく、他のインディーズアーティストにも求めているところはそこなのだ。かつてモリッシーとジョニー・マーが観衆の前でツイストダンスを踊ったように、超然と歴史の上で振る舞うことを。そのとき、レディー・ガガに売り上げで勝てることはまずないかもしれないが、それでもポップミュージックであることは可能なのだ。「There is a light that never goes out」消えない光を手に入れることができるのだ。
こういう文章を僕は書いたわけだが、スペースの都合上、また自分の中でも結論が出ないということもあり、書かなかったことがある。それはこのアルバムが80年代を参照してだけではなく、レディー・ガガ、ケイティー・ペリー、ジャスティン・ビーバー、リアーナといったメインストリームのポップスターたちに目配せしているということなのである。クリス・チューはインタビューでもケイティー・ペリーやジャスティンのファンであると公言していることもあるし、また彼らがポップミュージックを標榜しているということもあり、必然的に現代のポップスターたちを避けて通ることはできない話なのである。
ポップミュージックをどう定義するか。人それぞれロックの意味が違うのと同じで明確にすることは難しい。だが、たぶん多くの人がポップミュージックが人々をハッピーにし、広く世間に認められるような音楽だという認識があると僕は思っている。実際にPOP ETCの作品はそういった前向きなものだと聴いていて思った。
ただポップミュージックをそういう観点で突き詰めていけば、一番偉いのはさきほど挙げたポップスターたちということになるのではないか。現在レディー・ガガほど世界中の人々に勇気や希望を与えているアーティストがいるだろうか。ケイティー・ペリーのシングルほどド派手で前向きなポップスはあるのだろうか。この水平線にPOP ETCを並べてしまったとき、誰が彼らの音楽を聴こうと思うだろう。結局、インディーズファン以外の普通の若い男女に訴えかけるのはレディー・ガガになってしまう。POP ETCに勝ち目はない。
インディーズロックがポップミュージックへと近づいていった時、結局メインストリームの音楽の前で立ち往生してしまうというジレンマ。僕が思っていることというよりは、もし女子高生に「POP ETCがポップミュージックなら、レディー・ガガと同じなの?」こんな質問を投げかけられた時どう答えるかという自分の中での弁証法みたいなことを今書いている。
ポップミュージックの歴史という水平線だけを眺めた時にはPOP ETCの居場所は用意されていないかもしれない。しかしそこに自分の物語という垂直線を立てることで彼らはかろうじて生き残ると思うのだ。The Smithsがなぜ唯一無二の存在であるのか。それは歴史の視点とは無関係な人間同士の神話があるからだと僕は思う。もし、メインストリームではない人間がポップミュージックをやるのなら、この固有の神話性を目指さなければいけないと思う。
現在、ノスタルジアが流行していることに何の反論もない。心地よい音楽は大歓迎だ。しかし20年後の彼らは人々の記憶に残っているのだろうか。もし、心地よいだけならメインストリームの激流の中に消えていく可能性は高い。ピッチフォークでKINDNESSの新作『World, You Need A Change Of Mind』の評価はあまり良くなかった。70年代のファンク、ディスコは若い世代にとって新鮮だが、音楽評論家からすれば懐古主義と映るのだろう。Kindnessの顔は残念ながら見えないという厳しい評であった。
歴史に名を残すことなど考えていない。ただ自分の最高だと思う音楽をやるだけ。という傾向がインディーズバンドの中であることは確かだろう。これが新世代の価値観だと言われれば、そうだろうなと思う。
POP ETCがやろうとしていることは、ノスタルジアの風潮に反対し、メインストリームとの接点を積極的にもち、それでいてセルアウトしていないようなポップミュージックなのかもしれない。だとしたら、彼らはかなり無謀なことをしていることになる。今のままでは評価されるのは難しいかもしれない。20年後の彼らは尊敬するレディー・ガガやケイティー・ペリーの存在の前に消えている可能性もある。しかし、その容赦ない水平線という激流の中で自分たちの固有の神話を打ち立てることが出来れば、彼らは素晴らしいポップミュージックを作ることになるだろう。僕がPOP ETCだけでなく、他のインディーズアーティストにも求めているところはそこなのだ。かつてモリッシーとジョニー・マーが観衆の前でツイストダンスを踊ったように、超然と歴史の上で振る舞うことを。そのとき、レディー・ガガに売り上げで勝てることはまずないかもしれないが、それでもポップミュージックであることは可能なのだ。「There is a light that never goes out」消えない光を手に入れることができるのだ。
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