2012年7月17日火曜日

ロックの侵犯力

 トマス・ピンチョンが『スローラーナー』の中で書いていたけれど、上の世代はエルヴィス・プレスリーを恐れていたらしい。誰かがエルヴィス風に髪を梳かすと咎め、「あいつは何が目的なんだ?」と聞いたという。信じられない話だ。でも、70年代くらいまでは確かにロックに関する武勇伝はいっぱいある。例えば、ジョン・レノンがビートルズはキリストより有名だと言って世間の怒りを買い、ステージで身をくゆらせるジム・モリソンの後ろには警官が身構えていた。ザ・フーがテレビに出た時、司会者は彼らに恐怖を感じている。その後の演奏でキース・ムーンはバスドラムの中に隠していたダイナマイトを爆発させる。
ロックの侵犯力ということに関して最近考える。僕はロックを聴いてドキドキすることがあまりなくなって久しい。最近の若いUSバンドなどは非常にインテリジェンスで演奏能力が高く、よく音楽を掘り下げているマニアでもある。完成度が非常に高い。ただ聴いていてハラハラすることはなく、いけないことをしてるんだという気持ちになることもない。ニルヴァーナがそれまでのロックスター像を打ち破ったという歴史的な評価は正しいが、彼らはロックの侵犯力を殺した訳ではない。トップオブザポップスに出た時、すでにテレビ出演は全部固まった商業ベースにのっとって、首尾よく口パクで事故がないように執り行われていた。ただカートはわざとギターを高い位置に構えてあのスメルズライクティーンスピリットの鋭いカッティングとは相容れないゆっくりとしたストロークで腕を動かした。ボーカルはレコードの回転速度を落としたみたいに低い。ニルヴァーナはもうロックが体制に完全に取り込まれて手なづけられた時代にも、かろうじて侵犯力を持っていた。 
日本で神聖かまってちゃんが一時期もてはやされたのも、侵犯力に関係があるように今は思う。ネット世代云々というよりは、彼らが大人たちを脅かすような危うさを持っているとみんなが思ったのではないか。NHKの番組に彼らが出た時に、の子がギターを放り出してカメラの前で狂気的な表情をしてメッセージを伝えたが、あの瞬間彼らは侵犯力を持っていて僕をとてもドキドキさせた。でも、その後の彼らはすでに社会に取り込まれていた。狂人が社会の中でうまく取り込まれるように、の子はSMAPの番組に出て面白い、エキセントリックだという世間の評価を得てしまった。
ロックの狂気は社会の外に注意深く置かれるということ、そんなことは昔の話で、今では狂気もジャンルのひとつである。ピンクフロイドはMGMTにカヴァーされ、シドバレットやロッキーエリクソンを聴くことは結構おしゃれになってきていないか。先日行われたピチフォークフェスティバルを見ていてもみんなオシャレだと感じた。どんなに長く激しいインプロヴィゼーションに身を投じていてもやっぱりオシャレだ。ストゥージーズの『ファンハウス』のインプロとイギーポップの咆哮とは何か違うのだ。
僕はもうロックにいささかうんざりしている。ロックが社会に対して求心力を失って、内輪になってしまって、いくら音楽的に素晴らしくとも、どうしても興奮することがない。レディオヘッドは音楽性が素晴らしいけれど、やっぱり政治性があったことが彼らにエッジを与えていたのは間違いない。芸術全般がそういう風になってきているのかもしれない。大阪市で行われていることは一般の人々の芸術に対する意識を表しているのだろうか。
この前スーパーに行った時、店内では名曲メドレーが流れていた。そこではSEX PISTOLSの「God Save The Queen」が極端にデフォルメされて、まるで子どもが指一本でキーボードを叩いているみたいにして空間の環境音楽と化していた。大声で笑いたい気持ちになった。今、こういったことがまるでインスタグラムの写真エフェクトが瞬時に現在を100年前に加工できるようなことが、そういうことが音楽にも起こっているのかもしれない。悪いとは言わないけれど、だんだん僕は興味を失いつつある。

1 件のコメント:

  1. 2~3年前にこの記事を読んで、僕は大人になってしまったのですがふとまたロックの侵犯力のことを考えてしまい読みに来てしまいました。

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