2012年4月3日火曜日

ポップミュージックの考察(ももいろクローバーzも含め)

ロックンロールリバイバルムーヴメント全盛期である00年代前半、毎日MTVにかじり付いていたひとりの少年は、その日も学校から帰ってくるとブラウン管の前にいた。ホワイトストライプスのライヴが始まるところだったが、バンドが登場する前に、みすぼらしい格好をした禿げ親父(そうだ、その人はR.E.Mのマイケル・スタイプであった。)がカメラ前に出てきてこういった。「ロックは死んだなんて言われている。この男女2人を見てもまだそんなことが言えるのか?」
確かにあのとき、束の間ロックンロールは生き返ったのかもしれない。まるで磔にされたキリストが復活したかのように。ただ今はどうなのだろう。ポップミュージック全体を見渡してみても、ヒップホップの方面で新たな動きが見られるかもしれないが、シーン全体を何年にも渡って揺さぶるインパクトと目新しさはあるのだろうか。
音楽のフロンティアを探し求める動きは、1970年代がピークであったと思う。西側と東側によって分断された都市の閉塞感と緊張感、また逆にアフリカの開放的でフィジカルな魅力に溢れたビート、それらの要素をアメリカのような豊かさとその前向きなパワーによって支えられた世界が発見した時に生まれた数々の素晴らしい結晶としての音楽。それは現実世界では決して和解することがない人類を、音楽というひとつの思想によって繋いだ奇跡的な時代なのではないかと思う。またその後に起こったニューヨークのパンクロッカーを発端にした揺り戻しも入れると、この10年にポップミュージックの歴史が集約されているような気になってくる。
果たして現代の音楽に、今まで発見されていない価値観を持ったものが現れるかどうか疑問である。物語の形式は粗方使い尽くされ、もう残っているのは言葉によって形骸化した音楽とは言えないような音楽のガラクタだけではないか。しかし、ブルックリン周辺とかロサンゼルスといった地域で最近起こった60年代のサイケデリックロックの狂人たちの音、1980 年代のギラギラしたシンセの音を掘り起こしたグループ、MGMTやLCD SOUNDSYSTEMはそんな現代においての音楽の進むべき道の一つを示したように思える。
彼らはまず先人たちが歩んだ歴史に敬意を表す。膨大な量の音楽をインターネットも使って発見して消化し、当時のヴィンテージ機材を使いもする。そして明らかに歴史をそのまま固定化され横たわる死んだ歴史として捉えることをせず、それが自分たちの手で再編可能な生きたものとして歴史を捉えている。それは彼らの音楽の中には、当時は日の目を見ることがほとんどなかったようなカルトヒーローを臆することなく称賛し、引用するような態度が見られることからわかる。ポップミュージック史の中で、たぶんそのままにしていたら埋もれて二度と浮かび上がることはなかったような人たちを彼らは発掘したのだ。それはやはりYOUTUBEによって過去の音源や映像が発見しやすくなったことが多分に関係していると思われるが、彼ら自身の現代ポップミュージックの現状に対する批評眼と知的情熱をがなしえた達成であることは間違いなく言える。
1人1台のパソコンを簡単に持てる時代になったことは明らかに、上に挙げた知的な人々に最強の武器を与えることになったのだと思う。それは音楽だけではなくあらゆる芸術媒体に革命的な出来事であるにちがいないが。立派なスタジオで録音しなければ得られなかったような音がオーディオインターフェイスとMIDIキーボードさえあれば瞬時に手に入れることができるという点で、その中でも音楽に一番の衝撃を与えただろう。ロックスターは死んだ、しかし、今や自分の部屋で自分だけの音楽を作る環境を手に入れたのだから、みんながみんなロックスターのようなものである。
ミュージシャンは作家に近づいたように思える。自分だけの物語を書き、世界との調和を果たす現代作家のような存在に。だからNo ageやGIRLSのようなカリフォルニアを拠点とするバンドのように、とてもローカルに根付いていて、音楽に関しても売れることよりは、自分たちのコミュニティーを作り上げることを目指すような人たちも増えてきている。これはアメリカ的というよりは日本的な私小説文化に近いところがある。外の世界に対して何かを突きつけるというよりは自分たちの狭いコミュニティー内で充足することを目的とするような感覚だ。こういった動きは非常に興味深いが、私はこのラップトップによる音楽制作(DTM)が70年代の革新性と80年代の非常にスケールが大きく大衆的なポップミュージックを兼ね備えたような、力の強い音楽を作ることができるのではないかと思っている。
ももいろクローバーZ。このグループ、というかこのグループを取り巻くプロジェクト全てもまたこれからの音楽が進むべき一つの道である、と私は強くそう思っている。彼女たちの特徴はアイドルソングとは相容れないと思われるロック、パンク、ヘビーメタル、エレクトロ、ミュージカル音楽、ガムラン音楽など多彩なジャンルを取り入れて、それを全力の歌とダンスで歌い上げるというものだ。曲の提供はヒャダインとNARASAKIという2人の人物が中心となっている。彼女らの代表曲であるピンキージョーンズは最大トラック数を使用して、音を重ねているという。これは面白いと思った。ビートルズは後期にやっと8トラック録音ができるような時代だったと思うが、40年ほどの月日を経て、個人が120を越える多重録音ができる時代になったこと、そして一般家庭レベルに導入が可能になったこと、これは現代の特性ではないか。
圧倒的な情報が匿名性を帯びたネット住民たちによって流され消費される現代を映し出す音楽とは、圧倒的な情報量と匿名性の高い解析された音楽ジャンルの多彩さとを組み合わせたものであって良いと思う。それはひとつの明快な現代のポップミュージックへの解答であると思う。そこに生身の人間の、今をまさに生きている若者の熱が加わること、ポップミュージックの根幹となる、それは多くの人々に共有されるような、とても原始的な感情を呼び起こすようなものでなければならない。歴史と一続きで連なり、それでいて前に突き進む「物語」が出来上がった時、それは現代のポップミュージックと言えるものになるのではないか。
ロックは死んだ。それは認めるべきかもしれない。ただ根にある本能が死ぬことはないし、現代にしかできないことというのはかろうじて存在している。それを実践しているのがアイドルグループであるとしても、少なくとも僕にはそう思える、保守的なポップミュージックファンにはあんなもの気持ち悪いと猛烈に怒る人もいるだろうけれど、僕はそういう人たちを見ると嬉しくなってしまう。新しい表現はいつだって最初は醜い、という有名な芸術に関する箴言を逆説的に彼らは認めているようなものだから。

0 件のコメント:

コメントを投稿