2012年4月12日木曜日

レイモンド・カーヴァーは肉体的だ

  最近レイモンド・カーヴァーの短編を集中して読んでいる。僕は去年から英語で書かれた小説に関しては原文で読むというルールを自分に課したのだが、やはりまだまだ自分の英語力ではピンチョンやパワーズのような博覧強記の作家の書く英語を理解することは難しく、ついこの間もヘンリーミラーの『Tropic of cancer』のあまりの比喩の多さと長大さに屈したばかりだ。
そんな中出会ったのがカーヴァーである。彼は言わずと知れたアメリカ現代文学を代表する短編小説の名手だ。村上春樹が翻訳を出しているので、日本でも知名度は抜群であろう。短編であれば挫折する心配はないし、村上春樹が紹介しているとなれば面白いに決まっていると思い、彼の処女短編集『Will you please be quiet, please?』(邦題は『頼むから静かにしてくれ』)のペーパーバックを購入したのだった。
読み始めて最初に気づくのが、その文章の平易さである。難しい単語はほぼ使われていないし、言い回しに関してもくどい比喩表現は全くない。ただ淡々と状況を描写する言葉が並んでいる。無駄な部分は一切ない。これはヘミングウェイの短編を読んだときの感覚に近いものがある。この文体を見ただけでレイモンドカーヴァーが非常に肉体的な作家であることがわかる。扱うテーマも文章と同じく浮ついてはいない。私たちの日常で起こりうること、例えば学校をさぼって釣りに行く少年の話とか、レストランに来る太った男の話だとか、どれも自分の周りにいそうな人物であったり、出来事である。
カーヴァーのすごいところは、何の変哲もない日常の風景を面白く、恐ろしく描けるところにある。そういってしまうと簡単だが、カーヴァーの日常から何か深いものを浮かび上がらせる力は本当に天才的だ。言葉の使い方や言い回しでその面白さや恐ろしさを表すのではない。言葉はこの上なく平易で変なトリックも使っていない。しかし言葉と言葉の隙間からこちらを覗く存在がいることを読者は目の端で常に意識することになる。それは言葉では言い表すのが難しい。
カーヴァーの世界では全てのものの背後にその「こちらを覗く存在」がいる。彼の作品では会話が中心になることが多いのだが、登場人物たちの会話はとても自然で間の取り方も絶妙だ。違和感なく読者も一緒の席に座っているような気分になる。そして会話自体や会話の途中での登場人物たちの手の置き場所、目線の移動、はたまた彼らを取り巻くテーブルやイス、消えたテレビ、飼っている猫などそこにある全てのものの背後に「こちらを覗く存在」がいる。
人間と人間の関係には、どうしても乗り越えられない不和がある。カーヴァーの紡ぐ言葉の行間から覗く存在とは、人間存在の根源に繋がるものだと思う。
カーヴァーは、ヘミングウェイやフラナリー・オコナーを好んで読んでいたこともあるらしい。ただ彼の文体には、彼自身の人生経験が大きく反映している。父のクレヴィー・レイモンド・カーヴァーの死、結婚、師ジョン・ガードナーとの邂逅。
中でもカーヴァーに最も書くことについて教えてくれた人は、彼の2人の子どもたちだという。
"I have to say that the greatest single influence on my life, and on my writing, directly and indirectly, has my two children. "(『FIRES』P.31)
若いカーヴァーにとって、子どもたちの存在は大きな希望というよりむしろ絶望を与えた。彼は家族を支えるために、製材工場働き他にも清掃員や配達員、夏はチューリップ摘みなど様々な仕事に追われ、非常に貧しい暮らしを強いられていた。彼はそんな中で、1、2時間の空いた時間を作って、作品を書いていたのだ。限られた時間の中では、長編小説を書くような集中力を保つことは難しい、そして毎日の暮らしに忙殺されているカーヴァーは、自分と全く関係ない世界の出来事を書こうとも思わなかった。こうして、彼は自分の生活の中で特異な文体を獲得したのである。
  だから彼の作品の多くは諦念や絶望があるにも関わらず、生きて行こうとするわずかな希望も残しているように見える。道が開けるというような大きな希望が前にあるわけではなく、かろうじて今この瞬間、私の足元には道が続いている、という類の希望である。
僕は"To look up or down no road but it stretches and waits for you, however long but it stretches and wait for you, "というウォルト・ホイットマンの詩『Song of the Open Road』の一節を思い出す。道が続いていますように、カーヴァーが子どもたちの世話や仕事に追われながら、こう祈っている声が聞こえてくる気がする。
カーヴァーは70年代、アルコール依存症に苦しんだ。そして見事克服するのだが、今度は癌に冒され、1988年に50歳の若さでこの世を去った。私は今、彼の最高傑作との呼び声高い『CATHEDRAL』を読んでいる。私の印象では、彼は自分の知っている世界しか書かないとはいえ、決して自伝的に記憶をたどって書く訳ではない。彼は柴田元幸氏の言葉を借りれば、「読者的な作家」である。彼自身、自分の書く小説の筋を書く前から把握してはいず、先に少し見える光を頼りに目の前を掘り進んで行く。どこに出るかは本人もわかっていない。だから彼の小説の人物たちは、とても生き生きしていて妙に型にはまっていない。そこがカーヴァーの大きな魅力の一つだと思う。ただ『CATHEDRAL』の中では、少し物語を近くに置いているというよりは、自分自身の懐近くに置きすぎているように感じる。アルコール依存の男の話などはやはりカーヴァー自身を思い起こさずにはいられない。それはカーヴァーにのめり込みすぎている自分のせいなのかもしれないが。ただ今のところ、僕にとって一番信頼できる作家はカーヴァーであることは変わらない。

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