マルクス兄弟の作品は面白い。アダルトビデオの話ではない。アメリカのコメディ映画の話だ。ちょびヒゲのグルーチョの口から放たれるジョークやギャグの切れは素晴らしいし、あの腰が抜けたような歩き方もおかしい。ハーポの道化っぷりとあの可愛らしさ、そしてハープ演奏には目を見張るものがある。そしてチコのずる賢い顔とハーポとのやり取りは完璧で、彼の一本指で弾くピアノも最高だ。
彼らの作品はどれも舞台設定が変わるだけで、やっていることは同じだ。グルーチョとチコとハーポが美男美女のロマンスに絡むように暴れ回る。出てくるギャグも一緒。でも何度見ても笑ってしまう。1930年代のコメディを見て2012年を生きる20代の男が笑っている。それ自体とてもおかしいことのようだ。
「笑い」というのは不思議だ。単に面白いから笑うだけでなく、悲しい場面でも笑うし(例えば、葬式でお経を読んでいる時など)、ジャックニコルソンお得意の狂気の笑いというものもある。もちろん、マルクス兄弟の笑いはただ単純に面白いという原因から起こる笑いだろう。悲しさは微塵もない。バスターキートンはいつも無表情でおかしなことやる。これはちょっとグルーチョのやり方と似ている。そして、ウディーアレンもこの系譜だろうか。特に初期のウディーはだいたいそうだろう。真面目にやろうとしているのにそれが反って滑稽になってしまう男を演じるのがうまい。例えば、女の子とセックスをする前に部屋の窓を閉めようとするけど窓が全然閉まらない。あとは、かっこよく脚を組み替えようとして、目の前のテーブルに載った食事を全部ひっくり返してしまうとか。あとウディーで個人的に好きなのは、哲学用語を使って女の子と喧嘩する場面だ。これも真面目な言葉を使っていながらとても滑稽なのだ。
チャップリンはどうしても悲劇的な感じが付いて回るようなイメージだ。僕はチャップリンのコメディが苦手なのは、政治とか社会問題に妙に首を突っ込んでしまっているところなのだ。笑えるけど、悲しい。これはチェーホフの得意とするところだが、チャップリンのはまた少し違う。喜びと悲しみの感情が表裏一体であるチェーホフに対して、チャップリンではそれは分離していると思う。そういう感情の明白な転換についていけないのだ。
マルクス兄弟のコメディはチャップリンに比べれば、映画と言えるレベルではないのかもしれない。ただ映画は娯楽である。それはファンタスマゴリアと呼ばれた時代からそうなのだ。もともと人々をびっくりさせてやろうという子供じみた好奇心からできたのだ。チャップリンはコメディー映画を単なる娯楽という次元から引き上げた功績には素晴らしいものがあるが、マルクス兄弟の職人芸もそれと同じくらい評価されるべきであろう。
コメディーを手段として使うということがチャップリンではよくある。目的ではなく、正面からは到底太刀打ちできないもっと大きなものを攻撃したりするための武器として。ただこれを勘違いして、真実自体を隠すための手段として笑いを使う人間もでてきてしまった。アート・スピーゲルマンはロベルトベニーニの『ライフイズビューティフル』を、アウシュビッツ問題を抽象化し、一般的な悲劇化してしまったといって痛烈に批判する。ベニーニは息子と収容所に収監されてしまう。しかし、ベニーニはそれをゲームだといって息子に真実を見えないようにする。笑いはそこでは何かを暴露するためではなく、巧妙に隠す手段として使われてしまっている。
チャップリンは結局、コメディーから逸脱して、その土台の上で演説をしているように感じるときがあるが、ウディーアレンがやる笑いは、コメディーから逸脱しないことを徹底していると思う。普段では言いにくい上流階級への皮肉、人種問題、性の問題などを笑いによって揺さぶり、逆に真実を浮かび上がらせる。ベニーニがやったことはその逆になってしまった。結局、深刻な問題を笑いに変えるのではなく、それを見ようとする観客に対して、目の前で踊ってみせることで気をそらせたに過ぎないのだ。だから、あの映画を見て心底笑うなんてことは無理だ。見た後に腑に落ちない気分にもなる。
日本においても、テレビの笑いは何かを隠してしまっている笑いになっている気がする。深刻な問題を笑いに変えられる人物はあまりいない、爆笑問題がチャレンジしていると思うが。現在の吉本興業代表する笑いというのは、こちら側に笑うための土台を必要する場合が多い。身内の暴露話やお決まりのネタ、文脈がある程度わからないと笑えない、人物を知っていないと笑えないということをやっていることがあると思う。多分、彼らのひとりが深刻な人種問題を持ち出そうものなら、編集によってすぐにカットされるであろうし、その人はもう番組に呼ばれないのかもしれない。それは推測だが、これだけは明白だ。たぶん、観客は静まり返るということは。
ある一定の雰囲気の中で起こる笑いとは、世間との摩擦、違和感の交差するところで笑わせた先人たちの笑いとはまったく違う。あまり僕は好きではない。笑いはもっと原始的で、暴力的あると思うからだ。ビートたけしがやる笑いは、暴力だ。やりすぎなのではないか、保守的な父兄が抗議をしてくるような、ギリギリの笑いである。そして、北野武がやる笑いは、いつも死と隣り合わせでいる。ヒリヒリとしている。笑いの中に狂気も愛もあるし、その笑いの外にもっと大きな人間の生と死を浮かび上がらせている。テレビではマルクス兄弟のような原型的な笑いを行い、映画においてはもっと笑いという感情の奥底を見つめる。ウディーアレンもそうだろう。
笑いは暴力だ。北野武が『CUT』のインタビューでそんなことを言っていたと思う。ということは、笑いはもっとも原始的な人間の形であるということだ。暴力とは権力や建前を壊すために使われ、そしていつも権力側によって隠すためにも使われてきた。笑いもそうなのだ。さあ、僕らがやらなければいけない笑いはどちらだろうか?
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