キャメロンクロウが監督したパールジャムのドキュメンタリー映画を見た。パールジャムはグランジを語る時にニルヴァーナと共に欠かせないバンドだ。でも、僕はあんまり聴いたことがなく、『Vs』は聞いた覚えがあるけれど、全く覚えていない。単純にあまり音楽性が好きではないというのがある。ニルヴァーナがパンクよりだとすれば、パールジャムはスタジアムロックという印象で、あまり身体がノってこない。
グランジと言えば、ハードロックの流れを終わらせたムーヴメントとして語られる。ただ、このドキュメンタリーでのグランジという言葉は、当たり前の話だが関係者からはあまり聞かれず、メディア側が勝手に付けたレッテルとして扱われている。キャメロン・クロウはパールジャムというバンドを大きなロック史の流れで捉えることよりは、もっと普遍的な人間関係に焦点を当てている。
私は知らなかったのだが、エディー・ベダーが加入する前に「マザーラブボーン」という前身バンドがあったのだという。そのグループのボーカルであったアンディーがドラッグのオーヴァードーズで帰らぬ人となり、そういった失意と絶望の淵から、エディー・ベダーという若者の送ったボーカル入りデモが再び光をもたらし、パールジャムというバンドがスタートしたらしいのだ。
今でさえ、スタジアムが似合うバンドではあるが、昔の映像の彼らはニルヴァーナも同じく、いかにもシアトル出身のシャイな若者たちによるローカルなバンドという印象を与える。歌詞の内容に関しても、初期のエディーが歌うのは父親との関係である。売れてからもカート・コベインの死、商業主義的な興行との対決、そしてライヴでの死亡事故など、彼らは常に自分たちの現実の中で戦い、それ以上の何も見ていない。有名になっても彼らの幸せは、地下室に行ってみんなで演奏して、レコーディングをして、小さな会場でライヴをやることなのだ。
彼らはアンディーやカート・コベインの死をずっと心に抱え、そしていつでもファンのことを考えて生きている。仲間のために、ファンのために、この精神こそがグランジと呼ばれたムーヴメントの正体なのだ。それは決してハードロックを破壊するために生まれたわけではなく、ロック好きな少年たちの自分自身の居場所を見つけるための戦いであったのだ。
キャメロン・クロウは自伝的作品『あの頃ペニーレインと』でも描かれているが、60年代から70年代のロックのロマンスがあった時代に活躍した音楽ジャーナリストである。あの時代のヒーローたちはみんな公私関係なく格好良かった。全身全霊でロックンロールにぶつかって死んでいったやつらだ。パールジャムはザ・フーやレッドツェッペリン、ニールヤングといった偉大なる先人たちへの崇敬の念を隠さない。キャメロン監督はそういった先人たちの持っていた精神性と通じるものを彼らの中に感じたのだろう。確かにパールジャムにはあの頃のヒーローたちが持っていた真剣さと危うさがあると思う。
音楽を抜きにして、生き様がかっこいいというバンドは、今どれくらいいるだろう。リバティーンズは間違いなくそういうバンドだったと思うが。結局、僕も10代のキッズと同じく、馬鹿みたいに真摯で危うい、神話を作っちゃうような奴らを待ち望んでいる。
0 件のコメント:
コメントを投稿