2011年10月29日土曜日
2011年10月28日金曜日
2011年10月25日火曜日
2011年10月21日金曜日
2011年10月20日木曜日
2011年10月19日水曜日
2011年10月18日火曜日
2011年10月17日月曜日
コレラの時代の愛
何気なくテレビを付けると『コレラの時代の愛』を放映している。こういうことが非常に多いので、いつも断片的に見ている。もう4回くらいこの映画に鉢合わせたが、いつも途中で見るのをやめてしまう。私は映画を途中から見ることが許せないので、偶然放映していた映画を最後まで鑑賞することはほとんどない。ただ4回も偶然が続いた『コレラの時代の愛』は、かい摘んでだが全編を見たといってもいいかもしれない。
この映画の原作はガルシアマルケスの著作である。彼のことは『百年の孤独』で知っている人が多いだろう。僕も『百年の孤独』は2年前くらいに読んだ。当時の私は米作家のウィリアム・フォークナーに傾倒していて、その関連でガルシアマルケスに出会ったのであった。 フォークナーは南部アメリカの地縁、血縁に縛られる人々を描いた。過去に囚われる人間を扱う作品は無数にあるが、フォークナーの描く過去とは超克することができないほど巨大なものだ。それは決して消し去ることができないが故に人々を苦しめる。ただ過去が終わったもの、つまりは横たわる死として描かれるだけではなく、数多の犠牲の中で光る一筋の希望を描くことも忘れない。フォークナーにとって過去とは、人間を前進させるための、生に導くものでもあるのだ。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』でもフォークナーの特徴である地縁や血縁を背負う人々が描かれている。しかしフォークナーほどの重たい雰囲気はなく、過去はもっと神話的な、南米特有の魔術的な雰囲気を含んでいる。フォークナーは難解な作家と言われるが、マルケスはこのマジカルな味付けによって世間に広まったのであろう。
『コレラの時代の愛』の主人公も過去に囚われながら生きる男だ。初恋の人が忘れられず、彼女と婚約するまでは貞操を守ることを誓う。しかし、恋人は裕福な医者と結婚してしまうのである。実際、彼は貞操を守るどころか、多くの女性とやりまくる。出てくる女性はみんな美人で、中には『マルホランドドライヴ』に出ていた女優もいたと思う。もしかしたら、美女たちと主演のハビエル・バルデムの絡みがこの映画の最大の見せ場かもしれない。
多くの女性と関係を持つけれども、やはり彼の心の中にいるのは初恋のひと。オンリーユー。なんて臭いんだ。ただ僕はこういう馬鹿みたいにロマンティックところが好きだ。『グレートギャツビー』、イェーツのロマンティックな詩のような要素があるのが良い。恋は人を狂わせる。イェーツはひとりの女性が忘れられず、生涯独身を貫いた。フィッツジェラルドの作品には最愛の妻ゼルダの影。青年が一度は憧れる純愛、退廃的なロマンティシズムがこの映画に彩りを与える。
最後は、70歳を過ぎた2人が再会し、50年間の想いは遂げられる。結末にどうこういいたくないが、個人的にはギャッツビーみたいな苦い結末を迎えるほうが好きだ。あと、老人2人のベットシーンには賛否両論ありそうだ。初恋のひとの垂れ下がったおっぱい。なんとも哀しい。見てるときはいくらなんでもと思ったけれど、老いという消すことができない過去の蓄積を超えて繋がる2人の姿は、真実の愛を映し出しているのかもしれない。時間があったら、原作も読んでみたいと思う。
この映画の原作はガルシアマルケスの著作である。彼のことは『百年の孤独』で知っている人が多いだろう。僕も『百年の孤独』は2年前くらいに読んだ。当時の私は米作家のウィリアム・フォークナーに傾倒していて、その関連でガルシアマルケスに出会ったのであった。 フォークナーは南部アメリカの地縁、血縁に縛られる人々を描いた。過去に囚われる人間を扱う作品は無数にあるが、フォークナーの描く過去とは超克することができないほど巨大なものだ。それは決して消し去ることができないが故に人々を苦しめる。ただ過去が終わったもの、つまりは横たわる死として描かれるだけではなく、数多の犠牲の中で光る一筋の希望を描くことも忘れない。フォークナーにとって過去とは、人間を前進させるための、生に導くものでもあるのだ。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』でもフォークナーの特徴である地縁や血縁を背負う人々が描かれている。しかしフォークナーほどの重たい雰囲気はなく、過去はもっと神話的な、南米特有の魔術的な雰囲気を含んでいる。フォークナーは難解な作家と言われるが、マルケスはこのマジカルな味付けによって世間に広まったのであろう。
『コレラの時代の愛』の主人公も過去に囚われながら生きる男だ。初恋の人が忘れられず、彼女と婚約するまでは貞操を守ることを誓う。しかし、恋人は裕福な医者と結婚してしまうのである。実際、彼は貞操を守るどころか、多くの女性とやりまくる。出てくる女性はみんな美人で、中には『マルホランドドライヴ』に出ていた女優もいたと思う。もしかしたら、美女たちと主演のハビエル・バルデムの絡みがこの映画の最大の見せ場かもしれない。
多くの女性と関係を持つけれども、やはり彼の心の中にいるのは初恋のひと。オンリーユー。なんて臭いんだ。ただ僕はこういう馬鹿みたいにロマンティックところが好きだ。『グレートギャツビー』、イェーツのロマンティックな詩のような要素があるのが良い。恋は人を狂わせる。イェーツはひとりの女性が忘れられず、生涯独身を貫いた。フィッツジェラルドの作品には最愛の妻ゼルダの影。青年が一度は憧れる純愛、退廃的なロマンティシズムがこの映画に彩りを与える。
最後は、70歳を過ぎた2人が再会し、50年間の想いは遂げられる。結末にどうこういいたくないが、個人的にはギャッツビーみたいな苦い結末を迎えるほうが好きだ。あと、老人2人のベットシーンには賛否両論ありそうだ。初恋のひとの垂れ下がったおっぱい。なんとも哀しい。見てるときはいくらなんでもと思ったけれど、老いという消すことができない過去の蓄積を超えて繋がる2人の姿は、真実の愛を映し出しているのかもしれない。時間があったら、原作も読んでみたいと思う。
2011年10月16日日曜日
2011年10月14日金曜日
2011年10月13日木曜日
恋する原発のこと、脳みそのこと、
最近、脳がもてはやされています。テレビでもネットでも脳に良いことをやれとか、できる人は脳が違うとか、全てを脳で理解しようとしてませんか。問題なのは、その風潮に対する相対物がないことです。テレビは視聴率がほしいでしょうから、脳フィーバーを意図的に作り上げているのかもしれません。芸能人は、場が白けないように空気を読んでるのかもしれません。
でも、脳だけで理解できるくらい人間は単純にできてないよってそろそろ言うべきでしょう。エジプトの人たちは、死者をミイラにするとき脳みそは捨てて心臓を保存したそうです。夏目漱石は頭の怖さと心臓の怖さを区別していました。脳をいくら解剖して、前頭葉の部分とか小脳の部分とかで切り刻んで可視化しようとも、見えないものは見えないと思います。漱石の心臓の怖さとは頭じゃ理解できないもっと根本的な人間存在に関わるものです。
小説『恋する原発』では、真実から目を背けようとする日本人が描かれている。チンポコやおまんこは隠され、原発のこともずっと隠してきた日本人。真実を語ろうとする人間はKYという二語で片付けられてきた現代。ある小説家は「僕はこのときを待っていた。」と震災後に書いたそうだ。スーザンソンタグは9.11の後に、テロが必要なときもあると書いたそうだ。これは全部『恋する原発』に書いてあったこと。この人たちは社会の風潮に惑わされずに自分で「考えて」いる。
脳にすべてを語らせようとする今の風潮は、震災前と変わらない自分で考えようとしない、自分の感覚を信じない日本人ではないだろうか。「僕はこのときを待っていた。」震災によって日本の隠してきたものが露になりつつある。今こそ、自分で見るべきなんだろう。そして判断しなきゃならない。これは根気のいる辛いことだし、なかなか難しいことだ。ただ震災後にかろうじて生き残る人とはこの「考える」ことを実践する人だと思う。高橋源一郎は僕らにただ「考えろ」といっているのではないか。
脳とは観念に他ならない。実際に自分の脳を自分で見ることは一生ない。そんなものを信じてどうする。脳科学者がこれはこうだと決めつけてこようと、自分の感覚、心臓に問いかけてみることを忘れてはならない。震災によって日本というイメージが脆くも崩れ去った今、僕らがまずやらなきゃいけないことだと思う。
でも、脳だけで理解できるくらい人間は単純にできてないよってそろそろ言うべきでしょう。エジプトの人たちは、死者をミイラにするとき脳みそは捨てて心臓を保存したそうです。夏目漱石は頭の怖さと心臓の怖さを区別していました。脳をいくら解剖して、前頭葉の部分とか小脳の部分とかで切り刻んで可視化しようとも、見えないものは見えないと思います。漱石の心臓の怖さとは頭じゃ理解できないもっと根本的な人間存在に関わるものです。
小説『恋する原発』では、真実から目を背けようとする日本人が描かれている。チンポコやおまんこは隠され、原発のこともずっと隠してきた日本人。真実を語ろうとする人間はKYという二語で片付けられてきた現代。ある小説家は「僕はこのときを待っていた。」と震災後に書いたそうだ。スーザンソンタグは9.11の後に、テロが必要なときもあると書いたそうだ。これは全部『恋する原発』に書いてあったこと。この人たちは社会の風潮に惑わされずに自分で「考えて」いる。
脳にすべてを語らせようとする今の風潮は、震災前と変わらない自分で考えようとしない、自分の感覚を信じない日本人ではないだろうか。「僕はこのときを待っていた。」震災によって日本の隠してきたものが露になりつつある。今こそ、自分で見るべきなんだろう。そして判断しなきゃならない。これは根気のいる辛いことだし、なかなか難しいことだ。ただ震災後にかろうじて生き残る人とはこの「考える」ことを実践する人だと思う。高橋源一郎は僕らにただ「考えろ」といっているのではないか。
脳とは観念に他ならない。実際に自分の脳を自分で見ることは一生ない。そんなものを信じてどうする。脳科学者がこれはこうだと決めつけてこようと、自分の感覚、心臓に問いかけてみることを忘れてはならない。震災によって日本というイメージが脆くも崩れ去った今、僕らがまずやらなきゃいけないことだと思う。
2011年10月12日水曜日
ベルイマン
2011年も残すところあと2ヶ月あまりとなった。今年も多くの映画を見た。ウディアレンの監督作品、ずっと見たかったフェリーニの『甘い生活』、マルクス兄弟やバスターキートンのコメディー、『キックアス』のようなB級映画も見た。
多くの映画を見たなかで、特別心に残った映画といえばイングマールベルイマンの作品である。『不良少女モニカ』、『蛇の卵』、『恥』という映画史に名を刻むクラシックを見たのだが、特に『恥』は素晴らしかった。
戦争映画でこれほど人間の真理に迫った映画があるだろうか。戦争の犠牲者である一般の人々が、外部世界の変化に応じて、自分たちの態度をも自在に変えていく。そこには強者に虐げられる弱者という単純な図式があるだけでなく、弱者は一転して強者にもなる、いわゆる「弱者の強者」が描かれている。主人公の夫婦は、必要であれば政府の味方になり、また過激派の味方にもなり、果ては敵の味方にもなる。世界の中でただただ翻弄される弱者は、どんなイデオロギーによっても色付けされていないことで、カメレオンのように立場を変えられるのである。
最後、夫婦は一人の若い兵士を騙し船に乗って亡命する。だが、船の回りには無数の死体が浮き、まるで逃げる夫婦の邪魔をするかのように行く手を塞ぐ。そんな中、婦人が夫に不可思議な夢の話をして映画は幕を閉じる。
あの夢の意味はなんだろうか。赤ん坊に言葉をかけようとしてかけられない夢。僕にはまだわからない。平和が訪れたときに、子どもを作ろうと語っていた夫婦。平和など幻想だということだろうか。
僕はベルイマンがこの映画を単なる悲劇として撮ったとは一概には言えないと思っているし、単なる戦争批判を超えたものだと思う。これは人間存在に対するベルイマンの認識である。戦争によってこの認識ができあがったのかはわからない。ただここにいるのは、戦時下であろうとなかろうとかかわらず、わけもわからず翻弄される人間の姿である。ベルイマンは彼らに同情するわけでもなく、かといって非難するわけでもない。ただ、彼は見るだけである。
それが結果的には悲劇的に感じられもするだろうが、僕にはそういった一切の観念を捨象したところに、この作品の本当の意味があると思う。
先に挙げた『蛇の卵』では、ナチズムが台頭する前夜の不穏な空気が描かれている。科学者は偉大なる目的を達成するための犠牲になる。結末が予言されたとき、その過程というものは一切意味を失う。人間もその観念の前に過程として消え去るのである。『恥』で過酷な現実の前で翻弄される夫婦も同じである。ベルイマンはいつの時代も変わらない人間という真実を掴んでいたのだろう。
多くの映画を見たなかで、特別心に残った映画といえばイングマールベルイマンの作品である。『不良少女モニカ』、『蛇の卵』、『恥』という映画史に名を刻むクラシックを見たのだが、特に『恥』は素晴らしかった。
戦争映画でこれほど人間の真理に迫った映画があるだろうか。戦争の犠牲者である一般の人々が、外部世界の変化に応じて、自分たちの態度をも自在に変えていく。そこには強者に虐げられる弱者という単純な図式があるだけでなく、弱者は一転して強者にもなる、いわゆる「弱者の強者」が描かれている。主人公の夫婦は、必要であれば政府の味方になり、また過激派の味方にもなり、果ては敵の味方にもなる。世界の中でただただ翻弄される弱者は、どんなイデオロギーによっても色付けされていないことで、カメレオンのように立場を変えられるのである。
最後、夫婦は一人の若い兵士を騙し船に乗って亡命する。だが、船の回りには無数の死体が浮き、まるで逃げる夫婦の邪魔をするかのように行く手を塞ぐ。そんな中、婦人が夫に不可思議な夢の話をして映画は幕を閉じる。
あの夢の意味はなんだろうか。赤ん坊に言葉をかけようとしてかけられない夢。僕にはまだわからない。平和が訪れたときに、子どもを作ろうと語っていた夫婦。平和など幻想だということだろうか。
僕はベルイマンがこの映画を単なる悲劇として撮ったとは一概には言えないと思っているし、単なる戦争批判を超えたものだと思う。これは人間存在に対するベルイマンの認識である。戦争によってこの認識ができあがったのかはわからない。ただここにいるのは、戦時下であろうとなかろうとかかわらず、わけもわからず翻弄される人間の姿である。ベルイマンは彼らに同情するわけでもなく、かといって非難するわけでもない。ただ、彼は見るだけである。
それが結果的には悲劇的に感じられもするだろうが、僕にはそういった一切の観念を捨象したところに、この作品の本当の意味があると思う。
先に挙げた『蛇の卵』では、ナチズムが台頭する前夜の不穏な空気が描かれている。科学者は偉大なる目的を達成するための犠牲になる。結末が予言されたとき、その過程というものは一切意味を失う。人間もその観念の前に過程として消え去るのである。『恥』で過酷な現実の前で翻弄される夫婦も同じである。ベルイマンはいつの時代も変わらない人間という真実を掴んでいたのだろう。
2011年10月11日火曜日
モテキ
ドラマで満島ひかり演じるいつかちゃんが、神聖かまってちゃんのロックンロールは鳴り止まないっを泣きながら歌うシーンは最高だったな。2010年に2010年のリアルを歌うドラマがあったかな。モテキのすごいところは、まさに今生きてる時代をタイムロスなく映し出すことだと思う。
映画でも、その反射神経は健在であったと思う。大根監督はすごく日本のカルチャーを知ってるし、下北沢とか吉祥寺に生息してそうな若者たちのことがいつも頭にあるんじゃないかな。ストーリーのほうは予想通りというか、ドラマと同じような展開で特筆すべきところはない。僕は、どこで夙川ボーイズが出んのかなー、とかこんなところにこんな人出てるよすげー、とかもっぱら大根仁のセンスなのかな?にドキドキワクワクしていた。
女優陣のキャスティングは最高だと思う。長澤まさみはとてもキュートでちょっといつもよりセクシーで、麻生久美子もねっとりした感じがよかった。個人的には仲里依紗の出番の少なさにがっかりしたが。
今タワレコの視聴コーナーに置いてあるようなアーティストやバンドがたくさん出てきて、若干多すぎるかなと思うくらいである。でも、プロットとかに唸る映画ではないので、やり過ぎるくらいでよかったんだと思う。これはもちろんカップルで見て楽しむことができる作品ではあるけれども、一人で見に来て、サブカル好きの心をくすぐるような小ネタを探すのが楽しい作品だ。実際、Twitterに関する一連のやりとりとかはあまりに現実的で面白いし、登場人物の会話もとても生々しく、特にユキオと女優陣の会話なんかグサグサきた。
この映画はリアルだな。今生きる若者たちのリアルが余すところなく映し出された、と色々言いたいけどもうまく表せない。クソくだらないjpopとやらが流れないだけでもう最高、ということでいいか。
2011年10月10日月曜日
PINK FLOYDは古びない
最新リマスターが発売されたPINK FOLYD。NBCの番組ではPINK FOLYD WEEKがスタートし、MGMTがLUCIFER SAMのカバーを披露した。この曲は彼らの1枚目のアルバムに収録されている。まだシドバレットがいたころである。PINK FLOYDはプログレッシブロックの枠内で語られることが多いが、KING CRIMSONやYES、ELPなどとは区別されるべきグループである。
KING CRIMSON やYESはとてもテクニカルであり、クラシックやジャズの要素が強い。隙のない構成とテクニックに裏打ちされた即興演奏、特に後期のクリムゾンなどは他者を寄せ付けない迫力がある。ロバートフリップはブライアンイーノとグループを組んでいたし、フリーミュージックのアーティストとも競演していることから、彼が常に音楽面で新しい表現を求めていたことがわかる。
PINK FLOYDの1枚目を聴けばわかるが、これはプログレとは全く無関係だ。全うなサイケデリックロックアルバムである。彼らは後に『狂気』、『ザウォール』などコンセプチュアルな大作を生み出すのだが、そこにあるのは曲の緻密な構成や技巧ではなく、西海岸の豪快なロックンロールである。ロジャーウォーターズの頭の中にあるある意味強情な観念だけが、どんどん肥大していき、KING CRIMSONが技巧に追いつめられていったように、彼らもまた袋小路に迷い込むしかなかった。山崎洋一郎氏が書いていたが、PINK FLOYDの音楽はあまりに文学的になりすぎて、もはや音楽で表現する必然性を失ったのだ。
したがって、彼らの思想的な部分は確かにプログレッシブであるが、単純にサウンドだけを聴けばとても普遍的である。僕はプログレを聴くと古臭さを感じることが多い。だがPINK FLOYDは別で、いつの時代も古びない普遍性があるのだ。現在のロックシーンの先端に位置するMGMTが彼らの曲をカヴァーするというのも、とてもしっくりくるしすごくクールだ。
誰からもカヴァーされる曲があるけれども、カヴァーされるということはそれだけ親しみがあり、現代にも通用するタイムレスな価値観があるということに他ならない。YESやKING CRIMSONは気軽にカヴァーできないけれども、PINK FOLYDならできる。これはPINK FLOYDというバンドを表すとても良い言葉かもしれない。
ちなみに上の動画でオープンリールの楽器を操る怪しい男は、DEERHUNTERのブラッドフォードくんである。
2011年10月9日日曜日
Dirty Beaches
Dirty beachesの佇まい。彼がステージに立つ姿はとてもクールで、悲しい。この悲しいに惹かれる。孤独がにじみ出ている。ポマードでべっとりの髪の毛を櫛で撫で付け、平たいマイクを抱え込んで、ジムモリソンのようとも、イアンカーティスとも言われる低く、たまに素っ頓狂な不安定で不穏なボーカル。白いストラトキャスターはあまり弾かないけど、ずっと首から提げている。Dirty beachesは複数形なのに彼は一人でステージに立つんだ。後ろで流れるビートは70年代後半のポストパンクから、さかのぼってlove me tenderを歌うプレスリー、バディホリーのリバーブがかかったギター、ロネッツ,シュープリームスといった柔らかなポップスまで様々な要素が詰まっている。ノスタルジー、昨今のインディーズシーンでよく耳にする言葉だ。映画のような音楽と言われるDirty beachesのサウンドもそうだろう。この映画とは例えば暗黒街の顔役みたいなノワールのことを指しているのか。
僕は彼がただのオールディーズファンであるとしたら、レコードは買うまでもなかったろう。彼の醸し出すサウンドは、彼の人生から来る匂いが多分にある。実際、彼は台湾生まれで各地を転々とする生活をしていたそうだ。アメリカやカナダを拠点にしている一方、北京のロックシーンともつながりがあり当地でライブも行っている。
彼の音楽は自分自身の人生を色濃く反映した、ごく自然に出てきたものだと思う。僕はWashed OutやDeer hunter, Beach house,Ariel Pinkといったリヴァーヴが印象的なバンドとまた違った感覚でDirty Beachesを見ている。もちろん、上に挙げたほかのバンドはそれぞれ独自のサウンドを持っていると思う。ただ中でも、Dirty Beachesは僕の感覚に触れるものが大きかったということだ。深いリヴァーヴ以上の深い孤独の闇が見える気がするのだ。
2011年10月8日土曜日
Pumped Up Kicks - foster the people
Robert's got a quick hand
He'll look around the room
He won't tell you his plan
He's got a rolled cigarette hanging out his mouth
He's a cowboy kid
Yeah, he found a six-shooter gun
In his dad's closet hidden in a box of fun things
And I don't even know what
But he's coming for you, yeah, he's coming for you
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, outrun my gun
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, faster than my bullet
x1
Daddy works a long day
He be coming home late, yeah, he's coming home late
And he's bringing me a surprise
Because dinner's in the kitchen and it's packed in ice
I've waited for a long time
Yeah, the slight of my hand is now a quick pull trigger
I reason with my cigarette
And say your hair's on fire
You must have lost your wits, yeah
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, outrun my gun
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, faster than my bullet
x1
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, outrun my gun
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, faster than my bullet
x3
foster the peopleは、カリフォルニア州ロサンジェルス出身の3人組インディーズロックバンド。Pumped up kicksがビルボードのオルタナティブソングで1位を獲得、このシングルはなんと100万枚以上売れているそうだ。ロッキングオンの中村明美氏はブログで、He'll look around the room
He won't tell you his plan
He's got a rolled cigarette hanging out his mouth
He's a cowboy kid
Yeah, he found a six-shooter gun
In his dad's closet hidden in a box of fun things
And I don't even know what
But he's coming for you, yeah, he's coming for you
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, outrun my gun
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, faster than my bullet
x1
Daddy works a long day
He be coming home late, yeah, he's coming home late
And he's bringing me a surprise
Because dinner's in the kitchen and it's packed in ice
I've waited for a long time
Yeah, the slight of my hand is now a quick pull trigger
I reason with my cigarette
And say your hair's on fire
You must have lost your wits, yeah
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, outrun my gun
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, faster than my bullet
x1
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, outrun my gun
All the other kids with the pumped up kicks
You'd better run, better run, faster than my bullet
x3
『しかし正直言ってしまうと、私は完全に彼を勘違いしていた。例えば、MGMTとかヴァンパイア・ウィークエンドとか、パッション・ピットとか、ここ数年の東海岸の流れに乗って出て来た、もっとちゃらちゃらしたバンドだと思っていたのだ。まるで違ったので、本当に深く反省している。
カリフォルニア出身で、現在のツアー・メンバーは計5人。キーボードはそれより多い6台もあった!
メンバーは、むしろクリーンカットで、ヨレッとしたところがなく、ボタンダウンのシャツをきちっと着こんでいる。しかも、無駄に笑顔を振りまいたりすることもなく、とにかくそのサウンドのゆるさのイメージとは逆に、思い切りストイックに謙虚に向っているところが驚きで、そういうところから、この歓喜の超メジャー感あるダンス・サウンドを生み出しているのかと思うと、それがとてもカッコいいと思えた。』
とその印象を正直に語っている。僕も実は同じような印象を抱いていて、初期のMGMTのようなヒッピーっぽい格好をしたインディーズオタクの変態だろうと思っていた。しかし、上のプロモーションビデオを見てその勝手な想像はすぐ吹っ飛んで、もっと野心的で真面目なバンドだということがわかった。僕が興味を惹かれるのは、曲とルックスから醸し出すメジャー感である。キングスオブレオンが今や崩壊寸前であるのを尻目に、いいタイミングで出てきたと思う。彼らは数年後には、何年か前のキラーズやマルーン5といったバンドの立ち位置に近づいているのではないだろうか。
pumped up kicksはアンセミックでスケールの大きい曲であり、また緩くローファイな雰囲気を持った曲でもある。近年のヒットチューンのいいところをうまく取り入れている。曲の位相の真ん中に据えられたベースラインがこの曲の始まりであり、全てであるように思う。若干抑えが利いたメロディアスなラインに重なるボーカルにはラジオチューンから流れるようなフィルターが上手くかけられていて、曲の雰囲気をじわじわ盛り上げていく。そして、サビに入るとリバーヴと高いコーラスが曲を至福へと導く。口笛やボーカルのエフェクトを効果的に使っていて、女性ボーカルも重ねられているみたいだ。単純な構成であるが、サウンドの抑えた感じとサビのコントラストによってあまり単調にはならない。
歌詞のpumped up kicksとは、かっこいいスニーカーをはいた若者のことだそうだ。そいつらをロバートというカーボーイ風の男が後ろから銃で撃ち殺そうとしている。俺の銃弾よりも早く走れ。youd better run, better run, faster than my bullet. 結構歌詞はシリアスである。これをアメリカのキッズたちが熱唱しているということ。このことは、今現在起きているウォールストリートを中心とした抗議運動と無関係ではなさそうだ。foster the peopleは格差が広がるアメリカで、もしかしたら隙間を埋めるような存在かもしれない。そのくらいスケールがあるロックバンドになってもらいたいと思う。
登録:
投稿 (Atom)