最近、脳がもてはやされています。テレビでもネットでも脳に良いことをやれとか、できる人は脳が違うとか、全てを脳で理解しようとしてませんか。問題なのは、その風潮に対する相対物がないことです。テレビは視聴率がほしいでしょうから、脳フィーバーを意図的に作り上げているのかもしれません。芸能人は、場が白けないように空気を読んでるのかもしれません。
でも、脳だけで理解できるくらい人間は単純にできてないよってそろそろ言うべきでしょう。エジプトの人たちは、死者をミイラにするとき脳みそは捨てて心臓を保存したそうです。夏目漱石は頭の怖さと心臓の怖さを区別していました。脳をいくら解剖して、前頭葉の部分とか小脳の部分とかで切り刻んで可視化しようとも、見えないものは見えないと思います。漱石の心臓の怖さとは頭じゃ理解できないもっと根本的な人間存在に関わるものです。
小説『恋する原発』では、真実から目を背けようとする日本人が描かれている。チンポコやおまんこは隠され、原発のこともずっと隠してきた日本人。真実を語ろうとする人間はKYという二語で片付けられてきた現代。ある小説家は「僕はこのときを待っていた。」と震災後に書いたそうだ。スーザンソンタグは9.11の後に、テロが必要なときもあると書いたそうだ。これは全部『恋する原発』に書いてあったこと。この人たちは社会の風潮に惑わされずに自分で「考えて」いる。
脳にすべてを語らせようとする今の風潮は、震災前と変わらない自分で考えようとしない、自分の感覚を信じない日本人ではないだろうか。「僕はこのときを待っていた。」震災によって日本の隠してきたものが露になりつつある。今こそ、自分で見るべきなんだろう。そして判断しなきゃならない。これは根気のいる辛いことだし、なかなか難しいことだ。ただ震災後にかろうじて生き残る人とはこの「考える」ことを実践する人だと思う。高橋源一郎は僕らにただ「考えろ」といっているのではないか。
脳とは観念に他ならない。実際に自分の脳を自分で見ることは一生ない。そんなものを信じてどうする。脳科学者がこれはこうだと決めつけてこようと、自分の感覚、心臓に問いかけてみることを忘れてはならない。震災によって日本というイメージが脆くも崩れ去った今、僕らがまずやらなきゃいけないことだと思う。
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