2011年10月17日月曜日

コレラの時代の愛

 何気なくテレビを付けると『コレラの時代の愛』を放映している。こういうことが非常に多いので、いつも断片的に見ている。もう4回くらいこの映画に鉢合わせたが、いつも途中で見るのをやめてしまう。私は映画を途中から見ることが許せないので、偶然放映していた映画を最後まで鑑賞することはほとんどない。ただ4回も偶然が続いた『コレラの時代の愛』は、かい摘んでだが全編を見たといってもいいかもしれない。 
この映画の原作はガルシアマルケスの著作である。彼のことは『百年の孤独』で知っている人が多いだろう。僕も『百年の孤独』は2年前くらいに読んだ。当時の私は米作家のウィリアム・フォークナーに傾倒していて、その関連でガルシアマルケスに出会ったのであった。   フォークナーは南部アメリカの地縁、血縁に縛られる人々を描いた。過去に囚われる人間を扱う作品は無数にあるが、フォークナーの描く過去とは超克することができないほど巨大なものだ。それは決して消し去ることができないが故に人々を苦しめる。ただ過去が終わったもの、つまりは横たわる死として描かれるだけではなく、数多の犠牲の中で光る一筋の希望を描くことも忘れない。フォークナーにとって過去とは、人間を前進させるための、生に導くものでもあるのだ。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』でもフォークナーの特徴である地縁や血縁を背負う人々が描かれている。しかしフォークナーほどの重たい雰囲気はなく、過去はもっと神話的な、南米特有の魔術的な雰囲気を含んでいる。フォークナーは難解な作家と言われるが、マルケスはこのマジカルな味付けによって世間に広まったのであろう。
『コレラの時代の愛』の主人公も過去に囚われながら生きる男だ。初恋の人が忘れられず、彼女と婚約するまでは貞操を守ることを誓う。しかし、恋人は裕福な医者と結婚してしまうのである。実際、彼は貞操を守るどころか、多くの女性とやりまくる。出てくる女性はみんな美人で、中には『マルホランドドライヴ』に出ていた女優もいたと思う。もしかしたら、美女たちと主演のハビエル・バルデムの絡みがこの映画の最大の見せ場かもしれない。
多くの女性と関係を持つけれども、やはり彼の心の中にいるのは初恋のひと。オンリーユー。なんて臭いんだ。ただ僕はこういう馬鹿みたいにロマンティックところが好きだ。『グレートギャツビー』、イェーツのロマンティックな詩のような要素があるのが良い。恋は人を狂わせる。イェーツはひとりの女性が忘れられず、生涯独身を貫いた。フィッツジェラルドの作品には最愛の妻ゼルダの影。青年が一度は憧れる純愛、退廃的なロマンティシズムがこの映画に彩りを与える。 
最後は、70歳を過ぎた2人が再会し、50年間の想いは遂げられる。結末にどうこういいたくないが、個人的にはギャッツビーみたいな苦い結末を迎えるほうが好きだ。あと、老人2人のベットシーンには賛否両論ありそうだ。初恋のひとの垂れ下がったおっぱい。なんとも哀しい。見てるときはいくらなんでもと思ったけれど、老いという消すことができない過去の蓄積を超えて繋がる2人の姿は、真実の愛を映し出しているのかもしれない。時間があったら、原作も読んでみたいと思う。

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