2012年12月13日木曜日
2012年10月11日木曜日
2012年9月29日土曜日
9月23日カフェズミのイベント
9月23日に吉祥寺のCAFE ZUMIにて、翻訳家の小山景子さんと<じゃがたら そして篠田昌巳 トーク&リスニング> というイベントを行いました。僕自身はちょっと話したくらいなんですけど、とても良い経験をさせてもらい感謝しています。当日の配布資料用に文章を書いたので転載します。
背反する魂
1971年にジムモリソンはバスタブの中で死んだ。かれはBreak on through the other sideと叫んでいたように、常に死を、知覚の埃を全て吹きはらした完璧な生を求めていたのだと思う。ただドラッグでパラダイスへ向かおうとした60年代が終了し、70年代という醒めた、ドラッグの後遺症に悩まされる時代が始まり、77年に制作されたsuicideのアルバムなどを聞くと、ここにはもうどこか別の場所へ行こう、新しい世界を創造しようとする意志は見えない。ただこの場所で全てを破壊しつくす、どこか冷たい感情がある気がする。
60年代のジムモリソン、シドバレット、ロッキーエリクソンら狂人は消えて、70年代には醒めた時代の狂気が蔓延しはじめる。シド・ヴィシャスが死んで、ジョン・ライドンがPILとして生き残ったのは象徴的な出来事だ。公私ともにロックスターであった人物たちがだんだんいなくなり、音楽が感覚的なものから、もっと頭で考えることを重視するようになって、トーキングヘッズやポップグループのような知的なバンドが出てくる。
60年代から70年代初頭の狂気は体制の外にあり、避けるべきもの、根絶されるべき社会の敵とされていたと思う。イージーライダーはトラックの運転手に殺されたのだ。だが70年代後半には、その狂気はとうとう体制の中に組み入れられた。狂気は商売になると気づいたのだろう。デヴィッド・バーンはonce in a life timeのpvの中で奇妙なダンスを披露する。まるで狂人のようだ。そう、決して彼は狂人ではない。ただシェイクスピアの演劇に出てくるような賢い道化を演じているだけだ。
僕はニューウェイヴとして括られた音楽を、全くさっぱりとした気分で聴く。それは醒めているからだと思う。潜在意識の底に潜るような、瞑想的な音楽ではない。じゃがたらは1979年に結成されている。セックスピストルズが解散したのは1978年で、まさにニューウェイヴ真っただ中に生まれたのだ。
最初に聴いたとき、アフロビートを基調としているところからニューウェイブとの親和性を感じた。でも僕の気になったのは、江戸アケミという人物である。風貌も言葉も頭にこびりついて離れない。音は70年代かもしれないが、僕は江戸アケミがまるで60年代の亡霊に見えた。ここではまだ狂気が生きていると感じた。しかし、60年代の音が全てを解かしていくような感覚にはならない。というのも、ここには60年代と70年代の相克が見られる気がする。それは単純に音楽性や時代性の対立という外側のものだけではなくて、江戸アケミの内側に既に背反することを宿命づけるものがあるのではと思わせる。「3つ数える前に天国へ。」と歌う彼の天国とは光の向こう側であると言い切れない、ジム・モリソンがother sideへと突き抜けようとするときに、かれの足を引っ張るものはない、しかし江戸アケミの周りにはいつも深淵が広がっているように思える。なんだかぞっとするものがある。
70年代後期に突入して、多様でありながらも、どんどん一方向のスピードと知性に邁進していくニューウェイヴは、常に新しいショックを求める都市生活者に似ている。その雑踏の中で、江戸アケミは完璧な道化となることができなかった。かれは時代を駆け抜けたというより、常に時代に身を引き裂かれながら生きた人間で、自分の中でも背反するものを抱え、もだえ苦しみながら死んだ人だと僕は勝手に思ってる。
竹内 翔
2012年8月7日火曜日
2012年8月4日土曜日
2012年7月23日月曜日
2012年7月17日火曜日
ロックの侵犯力
トマス・ピンチョンが『スローラーナー』の中で書いていたけれど、上の世代はエルヴィス・プレスリーを恐れていたらしい。誰かがエルヴィス風に髪を梳かすと咎め、「あいつは何が目的なんだ?」と聞いたという。信じられない話だ。でも、70年代くらいまでは確かにロックに関する武勇伝はいっぱいある。例えば、ジョン・レノンがビートルズはキリストより有名だと言って世間の怒りを買い、ステージで身をくゆらせるジム・モリソンの後ろには警官が身構えていた。ザ・フーがテレビに出た時、司会者は彼らに恐怖を感じている。その後の演奏でキース・ムーンはバスドラムの中に隠していたダイナマイトを爆発させる。
ロックの侵犯力ということに関して最近考える。僕はロックを聴いてドキドキすることがあまりなくなって久しい。最近の若いUSバンドなどは非常にインテリジェンスで演奏能力が高く、よく音楽を掘り下げているマニアでもある。完成度が非常に高い。ただ聴いていてハラハラすることはなく、いけないことをしてるんだという気持ちになることもない。ニルヴァーナがそれまでのロックスター像を打ち破ったという歴史的な評価は正しいが、彼らはロックの侵犯力を殺した訳ではない。トップオブザポップスに出た時、すでにテレビ出演は全部固まった商業ベースにのっとって、首尾よく口パクで事故がないように執り行われていた。ただカートはわざとギターを高い位置に構えてあのスメルズライクティーンスピリットの鋭いカッティングとは相容れないゆっくりとしたストロークで腕を動かした。ボーカルはレコードの回転速度を落としたみたいに低い。ニルヴァーナはもうロックが体制に完全に取り込まれて手なづけられた時代にも、かろうじて侵犯力を持っていた。
日本で神聖かまってちゃんが一時期もてはやされたのも、侵犯力に関係があるように今は思う。ネット世代云々というよりは、彼らが大人たちを脅かすような危うさを持っているとみんなが思ったのではないか。NHKの番組に彼らが出た時に、の子がギターを放り出してカメラの前で狂気的な表情をしてメッセージを伝えたが、あの瞬間彼らは侵犯力を持っていて僕をとてもドキドキさせた。でも、その後の彼らはすでに社会に取り込まれていた。狂人が社会の中でうまく取り込まれるように、の子はSMAPの番組に出て面白い、エキセントリックだという世間の評価を得てしまった。
ロックの狂気は社会の外に注意深く置かれるということ、そんなことは昔の話で、今では狂気もジャンルのひとつである。ピンクフロイドはMGMTにカヴァーされ、シドバレットやロッキーエリクソンを聴くことは結構おしゃれになってきていないか。先日行われたピチフォークフェスティバルを見ていてもみんなオシャレだと感じた。どんなに長く激しいインプロヴィゼーションに身を投じていてもやっぱりオシャレだ。ストゥージーズの『ファンハウス』のインプロとイギーポップの咆哮とは何か違うのだ。
僕はもうロックにいささかうんざりしている。ロックが社会に対して求心力を失って、内輪になってしまって、いくら音楽的に素晴らしくとも、どうしても興奮することがない。レディオヘッドは音楽性が素晴らしいけれど、やっぱり政治性があったことが彼らにエッジを与えていたのは間違いない。芸術全般がそういう風になってきているのかもしれない。大阪市で行われていることは一般の人々の芸術に対する意識を表しているのだろうか。
この前スーパーに行った時、店内では名曲メドレーが流れていた。そこではSEX PISTOLSの「God Save The Queen」が極端にデフォルメされて、まるで子どもが指一本でキーボードを叩いているみたいにして空間の環境音楽と化していた。大声で笑いたい気持ちになった。今、こういったことがまるでインスタグラムの写真エフェクトが瞬時に現在を100年前に加工できるようなことが、そういうことが音楽にも起こっているのかもしれない。悪いとは言わないけれど、だんだん僕は興味を失いつつある。
ロックの侵犯力ということに関して最近考える。僕はロックを聴いてドキドキすることがあまりなくなって久しい。最近の若いUSバンドなどは非常にインテリジェンスで演奏能力が高く、よく音楽を掘り下げているマニアでもある。完成度が非常に高い。ただ聴いていてハラハラすることはなく、いけないことをしてるんだという気持ちになることもない。ニルヴァーナがそれまでのロックスター像を打ち破ったという歴史的な評価は正しいが、彼らはロックの侵犯力を殺した訳ではない。トップオブザポップスに出た時、すでにテレビ出演は全部固まった商業ベースにのっとって、首尾よく口パクで事故がないように執り行われていた。ただカートはわざとギターを高い位置に構えてあのスメルズライクティーンスピリットの鋭いカッティングとは相容れないゆっくりとしたストロークで腕を動かした。ボーカルはレコードの回転速度を落としたみたいに低い。ニルヴァーナはもうロックが体制に完全に取り込まれて手なづけられた時代にも、かろうじて侵犯力を持っていた。
日本で神聖かまってちゃんが一時期もてはやされたのも、侵犯力に関係があるように今は思う。ネット世代云々というよりは、彼らが大人たちを脅かすような危うさを持っているとみんなが思ったのではないか。NHKの番組に彼らが出た時に、の子がギターを放り出してカメラの前で狂気的な表情をしてメッセージを伝えたが、あの瞬間彼らは侵犯力を持っていて僕をとてもドキドキさせた。でも、その後の彼らはすでに社会に取り込まれていた。狂人が社会の中でうまく取り込まれるように、の子はSMAPの番組に出て面白い、エキセントリックだという世間の評価を得てしまった。
ロックの狂気は社会の外に注意深く置かれるということ、そんなことは昔の話で、今では狂気もジャンルのひとつである。ピンクフロイドはMGMTにカヴァーされ、シドバレットやロッキーエリクソンを聴くことは結構おしゃれになってきていないか。先日行われたピチフォークフェスティバルを見ていてもみんなオシャレだと感じた。どんなに長く激しいインプロヴィゼーションに身を投じていてもやっぱりオシャレだ。ストゥージーズの『ファンハウス』のインプロとイギーポップの咆哮とは何か違うのだ。
僕はもうロックにいささかうんざりしている。ロックが社会に対して求心力を失って、内輪になってしまって、いくら音楽的に素晴らしくとも、どうしても興奮することがない。レディオヘッドは音楽性が素晴らしいけれど、やっぱり政治性があったことが彼らにエッジを与えていたのは間違いない。芸術全般がそういう風になってきているのかもしれない。大阪市で行われていることは一般の人々の芸術に対する意識を表しているのだろうか。
この前スーパーに行った時、店内では名曲メドレーが流れていた。そこではSEX PISTOLSの「God Save The Queen」が極端にデフォルメされて、まるで子どもが指一本でキーボードを叩いているみたいにして空間の環境音楽と化していた。大声で笑いたい気持ちになった。今、こういったことがまるでインスタグラムの写真エフェクトが瞬時に現在を100年前に加工できるようなことが、そういうことが音楽にも起こっているのかもしれない。悪いとは言わないけれど、だんだん僕は興味を失いつつある。
2012年7月9日月曜日
2012年7月4日水曜日
2012年7月3日火曜日
KINDNESS『World, You Need a Change of Mind』
芸術とは、自己表現の手段であるということが多くの人に信じられている。確かに、何かを創りだす時に、そこに自己が介入しないということはほとんど不可能なのかもしれない。ほとんどの表現者はそこに自分の気持ちを込め、創造物を自分の思ったように作り上げようとする。そしてその独自性こそが芸術の評価へと繋がってくる。芸術の受け手が求めるのは、強烈な個性を持った作品である。しかし、芸術とは強烈な個性にしか拓かれないものなのか?そうであるならば、芸術とは特権階級的なものに成り下がったと言われても否定はできまい。
だが、KINDNESSの『World, You Need a Change of Mind』に映るAdam Bainbridgeの顔には、何かを積極的に訴えかけるようなものを感じない。真っ黒な長髪は目にかかり、頭は半分切れて映ってさえいない。動物のネックレスのほうが目立っている始末である。彼は全く自己表現から遠ざかるように傍観者のような目でこちらを見ている。
冒頭の"Seod"では、シンプルなドラムマシンのスネアとキック、そして物憂げなシンセが重ねられている。Adamの声はリバーブを過剰にかけたブライアン・フェリー、曲の終わりの悲しげなブラスはRoxy Musicの『Avalon』の幕切れのようだ。
続く"Swingin party"はthe Replacementsの、"Any one can fall in love"はAnita Dobsonのカヴァーである。どちらもオリジナルと聴き比べても、遜色ない素晴らしいものだ。後半にはEscortの"All Through the Night"をフックにした"Thats all right"もある。
Gee wiz"のアンビエントをくぐり抜けて現れる至高の1分52秒のディスコチューン"Gee Up"は間違いなく今作のハイライトの一つである。余韻のあるピアノやシンセで構成されたHouse"、ベースラインが印象的な"Cyan"など彼のオリジナル曲も良いのだが、カヴァー曲の存在感、全編に渡って充満するリヴァーブは、Adamの表情をやはり完全に隠しているように思える。
自己を消し去ってしまっている音楽、これがKINDNESSの目指しているところなのかもしれない。誰の表情も見えない中で、人々の差異はなくなっていく。そこでは誰もが主役なのだ。独自の個性がないと叩かれるのは仕方がない。ただ音楽、ひいては芸術とは、無数の名のない人たちによって支えられてきたものではなかったか。決して個人の表現欲を満たすだけの道具ではないのだ。かつてブニュエルは映画を作る理由を聞かれた時にこう答えた。「この世界が考えられる世界の最善のものではないということを示すため。」
"World, You Need a Change of Mind" あんたは考えを改める必要がある。とAdamが世界に対して言う時、彼の心の中には芸術、音楽に対する怒りと屈託のない愛情があるのかもしれない。
だが、KINDNESSの『World, You Need a Change of Mind』に映るAdam Bainbridgeの顔には、何かを積極的に訴えかけるようなものを感じない。真っ黒な長髪は目にかかり、頭は半分切れて映ってさえいない。動物のネックレスのほうが目立っている始末である。彼は全く自己表現から遠ざかるように傍観者のような目でこちらを見ている。
冒頭の"Seod"では、シンプルなドラムマシンのスネアとキック、そして物憂げなシンセが重ねられている。Adamの声はリバーブを過剰にかけたブライアン・フェリー、曲の終わりの悲しげなブラスはRoxy Musicの『Avalon』の幕切れのようだ。
続く"Swingin party"はthe Replacementsの、"Any one can fall in love"はAnita Dobsonのカヴァーである。どちらもオリジナルと聴き比べても、遜色ない素晴らしいものだ。後半にはEscortの"All Through the Night"をフックにした"Thats all right"もある。
Gee wiz"のアンビエントをくぐり抜けて現れる至高の1分52秒のディスコチューン"Gee Up"は間違いなく今作のハイライトの一つである。余韻のあるピアノやシンセで構成されたHouse"、ベースラインが印象的な"Cyan"など彼のオリジナル曲も良いのだが、カヴァー曲の存在感、全編に渡って充満するリヴァーブは、Adamの表情をやはり完全に隠しているように思える。
自己を消し去ってしまっている音楽、これがKINDNESSの目指しているところなのかもしれない。誰の表情も見えない中で、人々の差異はなくなっていく。そこでは誰もが主役なのだ。独自の個性がないと叩かれるのは仕方がない。ただ音楽、ひいては芸術とは、無数の名のない人たちによって支えられてきたものではなかったか。決して個人の表現欲を満たすだけの道具ではないのだ。かつてブニュエルは映画を作る理由を聞かれた時にこう答えた。「この世界が考えられる世界の最善のものではないということを示すため。」
"World, You Need a Change of Mind" あんたは考えを改める必要がある。とAdamが世界に対して言う時、彼の心の中には芸術、音楽に対する怒りと屈託のない愛情があるのかもしれない。
2012年7月1日日曜日
ICEAGE『NEW BRIGADE』 今更ですが。
"MARCHING"という単語と共にディレイのかかったギターカッティングで始まる冒頭の"White Rune"。なんとなくタイラー・ザ・クリエイターの"Yonkers"の奇怪なサンプリングに似たものを感じる。タイラーは歌の中で憎悪を剥き出しにし、PVの中でゴキブリを食って首を吊って死ぬ。
こんなにもAppetite For Destruction(破壊欲)に突き動かされたロックが最近あっただろうか。欧米で流行るチルウェイヴやローファイ勢とは対蹠的なバンドである。デンマーク出身というところも関係しているのだろうが、歴史の流れとは全く相容れない異形さに満ちている。
レコーディングは1トラックを使っての1発録り。それが荒々しい破壊衝動を納めることに成功している。JOY DIVISIONと比較されることが多いようだが、SEX PISTOLSの『勝手にしやがれ』の生き急ぐスティーヴ・ジョーンズのギターサウンドとギャングオブフォーやワイアーといったポストパンク勢、そしてノーウェイヴの不安定なテンションを通過した印象を受ける。
最後を飾る"YOURE BLESSED"で見せる手数の多いドラムと無機質なギター、そしてその上を飄々と渡り歩くする頼もしいベース、そして"If you could keep me together"と訛りの強い英語で歌うボーカルの怒りを剥き出した雄叫びが、モノラルサウンドの圧力で放出され合わさった瞬間の爆発力は全く近年のロックになかったものだ。明らかにこれは生易しい生の充足に向かっていず、転がっても血を流してでも、死んででも、何かを壊す、そして掴みとるような、まさにTOO YOUNG TO DIEの思想が感じられるのである。
歌詞は宗教や魔術のようなものがモチーフとなっている。破壊衝動の先にあるのは、強い仲間内の結束を求める気持ちが込められている。彼らの破壊は、兄弟間の血の契りのような強い結びつきの欲へと繋がっている。"New Brigade will never fade. ~its within me and you."新しい旅団は決して消えはしない。それは僕と君の中にある。と歌われるように。「愛と革命に生きる」といった太宰治ではないけれども、何かをぶち壊してやりたいという感情がここまで音楽に率直に反映されたロックに僕はとても共感する。
こんなにもAppetite For Destruction(破壊欲)に突き動かされたロックが最近あっただろうか。欧米で流行るチルウェイヴやローファイ勢とは対蹠的なバンドである。デンマーク出身というところも関係しているのだろうが、歴史の流れとは全く相容れない異形さに満ちている。
レコーディングは1トラックを使っての1発録り。それが荒々しい破壊衝動を納めることに成功している。JOY DIVISIONと比較されることが多いようだが、SEX PISTOLSの『勝手にしやがれ』の生き急ぐスティーヴ・ジョーンズのギターサウンドとギャングオブフォーやワイアーといったポストパンク勢、そしてノーウェイヴの不安定なテンションを通過した印象を受ける。
最後を飾る"YOURE BLESSED"で見せる手数の多いドラムと無機質なギター、そしてその上を飄々と渡り歩くする頼もしいベース、そして"If you could keep me together"と訛りの強い英語で歌うボーカルの怒りを剥き出した雄叫びが、モノラルサウンドの圧力で放出され合わさった瞬間の爆発力は全く近年のロックになかったものだ。明らかにこれは生易しい生の充足に向かっていず、転がっても血を流してでも、死んででも、何かを壊す、そして掴みとるような、まさにTOO YOUNG TO DIEの思想が感じられるのである。
歌詞は宗教や魔術のようなものがモチーフとなっている。破壊衝動の先にあるのは、強い仲間内の結束を求める気持ちが込められている。彼らの破壊は、兄弟間の血の契りのような強い結びつきの欲へと繋がっている。"New Brigade will never fade. ~its within me and you."新しい旅団は決して消えはしない。それは僕と君の中にある。と歌われるように。「愛と革命に生きる」といった太宰治ではないけれども、何かをぶち壊してやりたいという感情がここまで音楽に率直に反映されたロックに僕はとても共感する。
2012年6月21日木曜日
2012年6月20日水曜日
POP ETC再考 レディー・ガガに対してインディーズが打ち立てるべきもの
(この文章の一部はWeb magazine Qeticさんに載ったものです。再掲します。)
世界規模で認知されるということは、それだけ悪意に身を晒す危険が増すということでもある。ザ・モーニング・ベンダーズとして迎えた世界ツアーがスタートした時、バンド名の一部“Bender”がイギリス等のヨーロッパでは同性愛者を意味するスラングであることを指摘される。“All day daylight”で世界中に生きる人々との繋がりを歌った彼らはその事実にショックを受け、今作のレコーディングが終わった時点で改名することを決めた。
POP ETC、この新しい名前は彼らの音楽性を十分に説明している。全ジャンルを網羅する普遍的な“POP”という音楽、そしてその後に“ETC”(エトセトラ)という曖昧な広がりを残す言葉が続くということ。彼らの理想がはっきりと表れた名前だ。
セルフタイトルを冠した今作で、その理想は究極の形で鳴り響く。ピッチフォークでbest new musicに選ばれ、snoozer誌の2010年度ベストアルバム1位を獲得した前作『BIG ECHO』のフィルスペクターやビーチボーイズといった50~60年代のサウンドは跡形もない。それは今作の制作陣にデンジャーマウス、そしてカニエウェストのプロデューサーとして知られるアンドリュー・ドーソンらが参加していることからも分かるだろう。1. “new life”の冒頭でドラムマシンがゆっくりと暖かいビートを刻んでいくところで、これは両親がラジオでかけていた、彼らの原点である80年代にリスナーを連れていく。全体を貫くブライトなシンセとチープなドラムマシン、オートチューンやコーラスで飾られたクリスの歌声を聴きながら、マドンナ、プリンスといったポップスターや、ボーイズⅡメン、マライアキャリーといったR&Bのアーティストたちを思い浮かべずにはいられない。ただここにノスタルジアへの執着はなく、“I just wanna live it up”「ただ楽しみたいんだ。」とクリスが呟くように、今この瞬間を生きる希望に満ちた光だけがある。
“When everything is gone…”
「全てが消え去った時」、何が残るのだろう。冷たく横たわる死であろうか。いや、全てを包み込み、肯定するような生の感情に満ちた光ではないか。そしてその光こそが3分間だけかもしれないが、人々を繋ぐポップミュージックなのだ。このアルバムを聴いて最初に思い浮かべたのは過去の記憶であり、その後には記憶すらも遠のいていき、ただ眩い光の行き届いた空間が見えてくる。リヴァーブやローファイといった霧のない、人々を繋ぐはっきりとした光だけが広がる空間。それが『POP ETC』の行き着いた場所なのだ。
「全てが消え去った時」、何が残るのだろう。冷たく横たわる死であろうか。いや、全てを包み込み、肯定するような生の感情に満ちた光ではないか。そしてその光こそが3分間だけかもしれないが、人々を繋ぐポップミュージックなのだ。このアルバムを聴いて最初に思い浮かべたのは過去の記憶であり、その後には記憶すらも遠のいていき、ただ眩い光の行き届いた空間が見えてくる。リヴァーブやローファイといった霧のない、人々を繋ぐはっきりとした光だけが広がる空間。それが『POP ETC』の行き着いた場所なのだ。
(Sho Takeuchi)
こういう文章を僕は書いたわけだが、スペースの都合上、また自分の中でも結論が出ないということもあり、書かなかったことがある。それはこのアルバムが80年代を参照してだけではなく、レディー・ガガ、ケイティー・ペリー、ジャスティン・ビーバー、リアーナといったメインストリームのポップスターたちに目配せしているということなのである。クリス・チューはインタビューでもケイティー・ペリーやジャスティンのファンであると公言していることもあるし、また彼らがポップミュージックを標榜しているということもあり、必然的に現代のポップスターたちを避けて通ることはできない話なのである。
ポップミュージックをどう定義するか。人それぞれロックの意味が違うのと同じで明確にすることは難しい。だが、たぶん多くの人がポップミュージックが人々をハッピーにし、広く世間に認められるような音楽だという認識があると僕は思っている。実際にPOP ETCの作品はそういった前向きなものだと聴いていて思った。
ただポップミュージックをそういう観点で突き詰めていけば、一番偉いのはさきほど挙げたポップスターたちということになるのではないか。現在レディー・ガガほど世界中の人々に勇気や希望を与えているアーティストがいるだろうか。ケイティー・ペリーのシングルほどド派手で前向きなポップスはあるのだろうか。この水平線にPOP ETCを並べてしまったとき、誰が彼らの音楽を聴こうと思うだろう。結局、インディーズファン以外の普通の若い男女に訴えかけるのはレディー・ガガになってしまう。POP ETCに勝ち目はない。
インディーズロックがポップミュージックへと近づいていった時、結局メインストリームの音楽の前で立ち往生してしまうというジレンマ。僕が思っていることというよりは、もし女子高生に「POP ETCがポップミュージックなら、レディー・ガガと同じなの?」こんな質問を投げかけられた時どう答えるかという自分の中での弁証法みたいなことを今書いている。
ポップミュージックの歴史という水平線だけを眺めた時にはPOP ETCの居場所は用意されていないかもしれない。しかしそこに自分の物語という垂直線を立てることで彼らはかろうじて生き残ると思うのだ。The Smithsがなぜ唯一無二の存在であるのか。それは歴史の視点とは無関係な人間同士の神話があるからだと僕は思う。もし、メインストリームではない人間がポップミュージックをやるのなら、この固有の神話性を目指さなければいけないと思う。
現在、ノスタルジアが流行していることに何の反論もない。心地よい音楽は大歓迎だ。しかし20年後の彼らは人々の記憶に残っているのだろうか。もし、心地よいだけならメインストリームの激流の中に消えていく可能性は高い。ピッチフォークでKINDNESSの新作『World, You Need A Change Of Mind』の評価はあまり良くなかった。70年代のファンク、ディスコは若い世代にとって新鮮だが、音楽評論家からすれば懐古主義と映るのだろう。Kindnessの顔は残念ながら見えないという厳しい評であった。
歴史に名を残すことなど考えていない。ただ自分の最高だと思う音楽をやるだけ。という傾向がインディーズバンドの中であることは確かだろう。これが新世代の価値観だと言われれば、そうだろうなと思う。
POP ETCがやろうとしていることは、ノスタルジアの風潮に反対し、メインストリームとの接点を積極的にもち、それでいてセルアウトしていないようなポップミュージックなのかもしれない。だとしたら、彼らはかなり無謀なことをしていることになる。今のままでは評価されるのは難しいかもしれない。20年後の彼らは尊敬するレディー・ガガやケイティー・ペリーの存在の前に消えている可能性もある。しかし、その容赦ない水平線という激流の中で自分たちの固有の神話を打ち立てることが出来れば、彼らは素晴らしいポップミュージックを作ることになるだろう。僕がPOP ETCだけでなく、他のインディーズアーティストにも求めているところはそこなのだ。かつてモリッシーとジョニー・マーが観衆の前でツイストダンスを踊ったように、超然と歴史の上で振る舞うことを。そのとき、レディー・ガガに売り上げで勝てることはまずないかもしれないが、それでもポップミュージックであることは可能なのだ。「There is a light that never goes out」消えない光を手に入れることができるのだ。
こういう文章を僕は書いたわけだが、スペースの都合上、また自分の中でも結論が出ないということもあり、書かなかったことがある。それはこのアルバムが80年代を参照してだけではなく、レディー・ガガ、ケイティー・ペリー、ジャスティン・ビーバー、リアーナといったメインストリームのポップスターたちに目配せしているということなのである。クリス・チューはインタビューでもケイティー・ペリーやジャスティンのファンであると公言していることもあるし、また彼らがポップミュージックを標榜しているということもあり、必然的に現代のポップスターたちを避けて通ることはできない話なのである。
ポップミュージックをどう定義するか。人それぞれロックの意味が違うのと同じで明確にすることは難しい。だが、たぶん多くの人がポップミュージックが人々をハッピーにし、広く世間に認められるような音楽だという認識があると僕は思っている。実際にPOP ETCの作品はそういった前向きなものだと聴いていて思った。
ただポップミュージックをそういう観点で突き詰めていけば、一番偉いのはさきほど挙げたポップスターたちということになるのではないか。現在レディー・ガガほど世界中の人々に勇気や希望を与えているアーティストがいるだろうか。ケイティー・ペリーのシングルほどド派手で前向きなポップスはあるのだろうか。この水平線にPOP ETCを並べてしまったとき、誰が彼らの音楽を聴こうと思うだろう。結局、インディーズファン以外の普通の若い男女に訴えかけるのはレディー・ガガになってしまう。POP ETCに勝ち目はない。
インディーズロックがポップミュージックへと近づいていった時、結局メインストリームの音楽の前で立ち往生してしまうというジレンマ。僕が思っていることというよりは、もし女子高生に「POP ETCがポップミュージックなら、レディー・ガガと同じなの?」こんな質問を投げかけられた時どう答えるかという自分の中での弁証法みたいなことを今書いている。
ポップミュージックの歴史という水平線だけを眺めた時にはPOP ETCの居場所は用意されていないかもしれない。しかしそこに自分の物語という垂直線を立てることで彼らはかろうじて生き残ると思うのだ。The Smithsがなぜ唯一無二の存在であるのか。それは歴史の視点とは無関係な人間同士の神話があるからだと僕は思う。もし、メインストリームではない人間がポップミュージックをやるのなら、この固有の神話性を目指さなければいけないと思う。
現在、ノスタルジアが流行していることに何の反論もない。心地よい音楽は大歓迎だ。しかし20年後の彼らは人々の記憶に残っているのだろうか。もし、心地よいだけならメインストリームの激流の中に消えていく可能性は高い。ピッチフォークでKINDNESSの新作『World, You Need A Change Of Mind』の評価はあまり良くなかった。70年代のファンク、ディスコは若い世代にとって新鮮だが、音楽評論家からすれば懐古主義と映るのだろう。Kindnessの顔は残念ながら見えないという厳しい評であった。
歴史に名を残すことなど考えていない。ただ自分の最高だと思う音楽をやるだけ。という傾向がインディーズバンドの中であることは確かだろう。これが新世代の価値観だと言われれば、そうだろうなと思う。
POP ETCがやろうとしていることは、ノスタルジアの風潮に反対し、メインストリームとの接点を積極的にもち、それでいてセルアウトしていないようなポップミュージックなのかもしれない。だとしたら、彼らはかなり無謀なことをしていることになる。今のままでは評価されるのは難しいかもしれない。20年後の彼らは尊敬するレディー・ガガやケイティー・ペリーの存在の前に消えている可能性もある。しかし、その容赦ない水平線という激流の中で自分たちの固有の神話を打ち立てることが出来れば、彼らは素晴らしいポップミュージックを作ることになるだろう。僕がPOP ETCだけでなく、他のインディーズアーティストにも求めているところはそこなのだ。かつてモリッシーとジョニー・マーが観衆の前でツイストダンスを踊ったように、超然と歴史の上で振る舞うことを。そのとき、レディー・ガガに売り上げで勝てることはまずないかもしれないが、それでもポップミュージックであることは可能なのだ。「There is a light that never goes out」消えない光を手に入れることができるのだ。
2012年6月18日月曜日
ミッドナイト・イン・パリ
1920年代のパリはゴールデンエイジと言われる。アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイス、T.S.エリオット、ピカソ、ダリ、ブニュエルといった天才たちが勢揃いしていた。そしてガートルード・スタインの有名なサロンに、助言を求めて多くの若い芸術家たちが集まった。
中世の人々がギリシャ時代に、近代の人々がルネッサンスに憧れたように、1920年代のパリは現在でも多くのアーティストにとっての憧れの地である。ヘミングウェイは当時のパリを「moveable feast(移動祝祭日)」と呼んだ。記憶を辿れば、どんな時代、場所にいようがパリは人々に喜びを与えるのだ。
人々は自分だけの「パリ」、ノスタルジックな美しい過去を持っているのかもしれない。そしてウディ・アレンの映画を見ることとはまさに僕にとっては美しい過去に戻ることでもある。オープニングで流れるニューオリンズジャズを聴きながら、クレジットに"Jack Rollins"(Charles H. Joffeは2008年に亡くなった。)というおなじみのプロデューサーの名前が映し出された時、もう僕は現在にいながらノスタルジーの世界にいるのである。
処女小説を執筆中のギル(オーウェン・ウィルソン)は、恋人のイネス(レイチェル・マクアダムズ)とパリへ旅行する。ギルにとってパリは夢の場所であったが、旅先には芸術を全く意に介さないイネスとその両親や、スノッブで嫌みたらしい友人のポール(マイケル・シーン)といったウディ・アレン作品には必ず登場する「お高くとまった人たち」が出てきて、彼の邪魔をするのだ。
ある日、酔っぱらったギルが真夜中のパリをぶらついていると、0時の鐘とともに目の前にアンティークカーが現れる。中には1920年代風の男女が乗っていて、一緒に来るように誘うのだった。連れてこられたパーティーにはスコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダ、コール・ポーターと名乗る人物がいて、しかも主催者はジャン・コクトーだという。ギルは信じられない気持ちのまま、フィッツジェラルド夫妻とバーへ行く。そこにはなんとヘミングウェイが。どうやら夢の世界へ来てしまったことに気づいた彼は、執筆中の小説をヘミングウェイに読んでほしいと頼む。パパ(ヘミングウェイの愛称)はギルの申し出を拒否するが、代わりにガートルード・スタインを紹介するというのだった。
映画とは一種の夢である。それは現実世界とは全く関係ない世界を構築するのだ。ギルは映画の中で夢を見、僕らは彼の夢の中でまた夢見る。夢の世界は長くは続かず、ギルは朝になるとまた嫌みな連中がいる現実世界へと戻っている。次の夜もイネスを誘って行ってみようとするが、彼女は結局あきれて帰ってしまう。イネスという現実は遠のき、また夢の世界がギルの元に近づいてくる。ガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)のサロンに赴いてピカソと出会い、ダリ(エイドリアン・ブロディ)、マン・ルイ、ブニュエルといったシュルレアリストたちにも遭遇する。ウディ・アレンは彼らを戯画化し、笑いたっぷりに描く。ウディは人を皮肉る天才であるが、決して馬鹿にした態度ではなく、愛情を込めて人々を見つめている。偉人たちを演じる役にはキャシー・ベイツやエイドリアン・ブロディのようなベテランから、『Scott Pilgrim vs. the World』や『ミルク』に出演した若手のアリソン・ピルなど幅広い年齢層、キャリアの俳優たちが出ていて、映画ファンを飽きさせない。
ピカソの愛人であったアドリアナ(マリオン・コティアール)にギルは恋をする。彼がアドリアナにイネスのネックレスをプレゼントしようとすることで、昼のパリという現実が真夜中のパリという超現実の世界に浸食されていき支障が出始める。ギルはアドリアナへの想いを告白するが、彼らは1920年代のパリからアドリアナにとってのゴールデンエイジである1890年代のパリへと更に過去を遡っていく。ギルは誰にとっても過去は美しく、現在は醜く見えてしまうのだと気づかされるのだった。
"古いジョークがある。キャッツキル山地の避暑地に来た2人の年増の女性の一方がこう言った、「ねえ、ここの食事は本当にひどいわ。」そしてもう1人が「ええ、そうね。しかも量もとっても少ないわ。」ええ、これは僕の人生に対する考え方です。人生は悲しく、惨めで、苦しく、不幸でいっぱいで、すぐに過ぎ去ってしまう" (『アニーホール』)
ウディは一貫して人生はひどいものだと言い続けてきた。でも、それは逆説的に人生を楽しくするおまじないである。ウディは『ボニー、俺も男だ』でボガードに憧れるが決して彼になることはできなかった。映画の中でウディはいつもセックスしようとすればなかなか窓が閉まらなかったり、相手がとんでもない変態だったり、カッコつけて脚を組もうとすれば目の前のテーブルをひっくり返してきた。
彼は映画の中でひたすら惨めさを笑い飛ばすことで、人生を肯定してきた。惨めさを認めることは、現状をありのまま受け止めることに繋がる。まあ、人生なんてこんなもんさという。
ギルは真夜中のパリに住むことは結局できなかった。昼のパリには雨が降っている。でも、今の彼には雨の日の散歩が大好きで、古いレコードを良く知っている新しい恋人が側にいる。自分を肯定してくれる小さな世界があるのだ。そういえば、劇中で流れるコール・ポーターの"Let's do it"は『Everything You Always Wanted to Know About Sex * But Were Afraid to Ask 』 でも使われていた。やっぱり気難しい顔をしながらもウディの作品にはずっと人生の肯定、人への愛情がずっとあるんだろう。映画館を出て、僕はウディ・アレンの過去の作品を思い出しながら帰った。頭の中にはコール・ポーターが"Let's fall in love"と繰り返し歌っている。ああそうだ、僕にとってウディ・アレンの映画の中の世界こそ、僕をいつでも楽しませてくれる"Moveable Feast"(移動祝祭日)なのだと思った。
2012年6月14日木曜日
2012年6月13日水曜日
『終着駅 トルストイ最後の旅』
『人生論』、『アンナカレーニナ』を学生時代に読んだ。特に『人生論』は愛について、生きる意味について多く教えてくれた。月日が過ぎて、僕の中でトルストイは過去の物になってしまった。ただ、忘れたわけではなく、机の引き出しを開けるたびに目に入るけれど手に取ることはしない思い出の品みたいなものだった。
過去の物だと思っていたものが、再び新しい価値観を帯びて自分の元に現れると、何だか不思議な気持ちになる。昔から知っている人、かつて愛した人で一度は憎んで馬鹿にして、相手にしなくなった人との些細な記憶が、全く違う現在の光を浴びて、記憶の中に溜まっていた埃までもがキラキラした美しいものに変わり、あの人の流した涙、怒りの言葉、不可解な行動の意味が変わる時、僕はそのときの自分の狭量さを恥じると同時に、人間という生き物がとても愛おしくなって幸せな気持ちになる。
僕はずいぶんトルストイを避けてきた。僕に愛の意味を教えてくれた人は、能天気な博愛主義者へと変わっていた。自分の人生にとても辛い別れがあったし、また去年は地震もあった。そんな中で愛など信じられるか、と本気で思った。今でもそうだ。愛など何の当てにもならない。自分がどれだけ相手を愛そうが、気持ちが完全に通じ合うことなどない。
たぶんトルストイもそうだったのだ。『終着駅 トルストイ最後の旅』を見てはっと気づいた。人類愛を唱えきた彼も、愛を信じ愛に破れた人なのだ。アンナカレーニナがそうだったように。トルストイの愛はくまなく人々の上に降り注ぐ。しかし、降り注いだ愛は現実に触れ、形を変えていく。妻のソフィアには人類愛が家族の愛を無視したただの傲慢になり、トルストイ主義者のウラジミールには形骸化した観念と成り果てる。
彼は常に現実に苦しめられながらも、決して理想を捨てることはなく、のたれ死ぬことを選んだ。家族への愛を十分に持っていたにもかかわらず彼は理想の愛のためにのたれ死ぬのだ。彼は能天気な博愛主義者などではなく、最も現実に苦しめられた人であって、その中で愛を信じていたのだ。
僕の中のトルストイに新たな光を当ててくれたこの映画に感謝したい。
2012年6月10日日曜日
2012年6月8日金曜日
2012年6月5日火曜日
Beastie Boys - Rock Hard
リック・ルービン(当時はNYUの学生だった)は、ラップというよりは歪んだベースループとハンドクラップ、いたずら電話の会話からなるシングル"Cooky Puss"を聴いて才能を感じ、"白いラッパー"としてビースティーボーイズを売り出そうとする。リックのコネクションによって、彼らはまだ出来たばかりのデフジャムと契約する。リックがプロデューサーとなり、最初に録ったのがこの"Rock Hard"であった。AC/DCの名曲"Back In Black"のリフをサンプリングしている。後にBoogie Down Productionsもサンプリングしているが、ビースティーのはまさに初期衝動とも言える荒さが目立つ。
2012年6月3日日曜日
2012年5月28日月曜日
X-MEN: ファースト・ジェネレーションのレビュー
この作品は『キックアス』のマシューヴォーンが監督しているx−メン前日譚である。『キックアス』は非常に評価され、またX-MENシリーズはどれも面白かったため、相当なプレッシャーと期待がかけられていたのではないだろうか。
ウルヴァリンやサイクロップスという有名なキャラクターが出てこない(ヒュージャックマンは少しだけ出てくるのだが。)、前3作で良い終わり方をした、またずいぶん前に見たガーディアンのレビューであまり良い評価がされていなかったので、僕はそこまで見たいという気持ちがなかったし、ちょっと心配な部分もあった。
映画の内容に関しては、『ダークナイト』から大きな影響を受けているなと感じた。まず、ストーリーの展開がものすごく速い。『ダークナイト』は圧倒的な情報量とめまぐるしい場面展開があるが、見ていて同じような感覚を覚えた。xメンでは、実際にあったキューバ危機という歴史的な事件を水平線として、その上にミュータントと人類の争いが垂直に置かれている。『ダークナイト』同様に世界を巻き込みながらも、キャラクターたちの個人的な物語が主題であるのだ。
情報を詰め込んで見せることは、圧倒的な世界観を観客に与えるために非常に有効な手段であるが、少しでもそこに齟齬があれば、観客の頭にはクエスチョンマークができて、それがスピード感で多少ごまかされているとはいえ、やはり違和感を与えてしまうし、また作品を貫く一本線も霧がかかったように不明瞭になってしまうのだ。
ミスティークとビーストの恋愛関係に発展する際の感情の動きは全くこちらには理解できないウルヴァリンがカメオ出演するのは良いが、あの一言で終わってしまうのも謎だ。ミュータントの能力に関しても、なんであの女はクリスタルみたいになるしテレパス能力も持っているのか、訓練生たちを発見したは良いが、ひとりひとりの能力を紹介するやり方が、まるで大学生の新入生歓迎会での自己紹介風なのが、取って付けたみたいで不自然だと思ってしまった。シーンとシーンの繋ぎ方にも???となってしまうところがあった。
俳優たちのキャスティングは個人的にすごく好きだ。ケヴィン・ベーコンは、いくつになっても相変わらず安定した悪役ぶりを見せてくれるし、ジェームズ・マカヴォイとマイケル・ファスベンダーもとても知的な雰囲気で役に合っていたと思う。そしてミスティークを演じたジェニファー・ローレンスの可愛らしさと瑞々しい肉体。もっと彼女をセクシーに映してもよかったのではないか。続編ではもう見られないんだろうから、ちょっと残念である。
ミュータントを攻撃する人間の姿、それに対するプロフェッサーXとマグニートの思想の違い、それは単なるアメコミの世界を超えて、ダーウィン以降の人類の歩みについての大きな景色を見せていたと思う。三部作になる予定らしいので、次は妙なキャラクター紹介などは省かれているだろうし、もっと面白くなる要素はあるだろう。それにしても最近は前日譚ものがとても多い。今夏には『エイリアン』の前日譚『プロメテウス』も公開されるという。どんな形であれ、好きな作品の続編が見られるのは素直に嬉しいことだ。
ウルヴァリンやサイクロップスという有名なキャラクターが出てこない(ヒュージャックマンは少しだけ出てくるのだが。)、前3作で良い終わり方をした、またずいぶん前に見たガーディアンのレビューであまり良い評価がされていなかったので、僕はそこまで見たいという気持ちがなかったし、ちょっと心配な部分もあった。
映画の内容に関しては、『ダークナイト』から大きな影響を受けているなと感じた。まず、ストーリーの展開がものすごく速い。『ダークナイト』は圧倒的な情報量とめまぐるしい場面展開があるが、見ていて同じような感覚を覚えた。xメンでは、実際にあったキューバ危機という歴史的な事件を水平線として、その上にミュータントと人類の争いが垂直に置かれている。『ダークナイト』同様に世界を巻き込みながらも、キャラクターたちの個人的な物語が主題であるのだ。
情報を詰め込んで見せることは、圧倒的な世界観を観客に与えるために非常に有効な手段であるが、少しでもそこに齟齬があれば、観客の頭にはクエスチョンマークができて、それがスピード感で多少ごまかされているとはいえ、やはり違和感を与えてしまうし、また作品を貫く一本線も霧がかかったように不明瞭になってしまうのだ。
ミスティークとビーストの恋愛関係に発展する際の感情の動きは全くこちらには理解できないウルヴァリンがカメオ出演するのは良いが、あの一言で終わってしまうのも謎だ。ミュータントの能力に関しても、なんであの女はクリスタルみたいになるしテレパス能力も持っているのか、訓練生たちを発見したは良いが、ひとりひとりの能力を紹介するやり方が、まるで大学生の新入生歓迎会での自己紹介風なのが、取って付けたみたいで不自然だと思ってしまった。シーンとシーンの繋ぎ方にも???となってしまうところがあった。
俳優たちのキャスティングは個人的にすごく好きだ。ケヴィン・ベーコンは、いくつになっても相変わらず安定した悪役ぶりを見せてくれるし、ジェームズ・マカヴォイとマイケル・ファスベンダーもとても知的な雰囲気で役に合っていたと思う。そしてミスティークを演じたジェニファー・ローレンスの可愛らしさと瑞々しい肉体。もっと彼女をセクシーに映してもよかったのではないか。続編ではもう見られないんだろうから、ちょっと残念である。
ミュータントを攻撃する人間の姿、それに対するプロフェッサーXとマグニートの思想の違い、それは単なるアメコミの世界を超えて、ダーウィン以降の人類の歩みについての大きな景色を見せていたと思う。三部作になる予定らしいので、次は妙なキャラクター紹介などは省かれているだろうし、もっと面白くなる要素はあるだろう。それにしても最近は前日譚ものがとても多い。今夏には『エイリアン』の前日譚『プロメテウス』も公開されるという。どんな形であれ、好きな作品の続編が見られるのは素直に嬉しいことだ。
2012年5月25日金曜日
2012年5月24日木曜日
2012年5月23日水曜日
2012年5月14日月曜日
2012年5月11日金曜日
2012年5月9日水曜日
BLACK SWAN
自分と自分の別人格、ダブル(分身)ものの映画作品で思いつくのは、まずヒッチコックの『サイコ』、ミッキーローク主演の『エンゼルハート』、『ファイトクラブ』あと『ミミック』とか色々ある。プロットで驚くということは現代の映画において必ずしも重要であるとは思わない僕は、『ブラックスワン』のナタリーポートマン演じるニナとミラキュニス演じるリリーの関係性については別に書きたいと思わない。
ただこの映画は展開がある程度予想できるとはいえ、とても不気味で不安感を煽るのだ。俳優陣の素晴らしい演技が作品全体にテンションを与えていることが単純に大きいと思った。ナタリーポートマンは今作で、プレッシャーに押しつぶされる情緒不安定な少女の表情、女性というより人間の崇高な肉体美、潜在意識に眠る自我など全く異なる女性の面を、全く継ぎ目の見えない完璧な、まるで全速疾走で綱渡りをするかのような、危ういギリギリの演技で見せてくれる。ベッドの上で自慰に耽っているときの筋肉の動きと恍惚とした顔、母親に白鳥に抜擢されたことを報告するときの泣き顔、ラストの白鳥が黒鳥に変身して踊っている時の狂気じみた顔を見てほしい。真逆のものが一続きであるのがわかるだろう。もしかしたら『レオン』の時、既に彼女にはこういった相容れない要素を一作品の中で見せてしまう希有な才能を発揮していたのかもしれない。家族を失くして泣きはらす顔、復讐に燃える冷静で知的な顔、大人を誘惑する妖艶な顔。改めてナタリーポートマンの凄さを思い知らされた。
脇を固める俳優も実に適切に配置されている。ヴァンサンカッセルのあの胡散臭く憎たらしい顔、母親役のバーバラハーシーの娘を見る愛憎こもった狂気の笑顔、そしてウィノナ・ライダーの演じる落ちぶれたダンサー。『シザーハンズ』のブロンドの美少女はどこにいったんだと悲しい気分になったし、役があまりに彼女の現状と被る気もしたため、胸が痛む部分もあったけれど、この仕事を引き受けて過激な演技を成し遂げたウィノナには女優魂を見た気がした。
また作品にテンションを与える上で、ニナの背中に現れる謎の引っかき傷、指先の切り傷はとてもうまい演出であると思った。それらは誰もが経験したことがあるであろう恐怖であり、痛みである。またその傷は最終的に彼女の追い求めた完璧さ、快楽へと繋がっていくことも興味深い。痛みによって快楽を知るとは、エミリーディキンソンの詩を思い起こすし、また18世紀のピクチャレスクの概念も思い出す。美と恐怖とは同一であるのだという。
ただこの映画は展開がある程度予想できるとはいえ、とても不気味で不安感を煽るのだ。俳優陣の素晴らしい演技が作品全体にテンションを与えていることが単純に大きいと思った。ナタリーポートマンは今作で、プレッシャーに押しつぶされる情緒不安定な少女の表情、女性というより人間の崇高な肉体美、潜在意識に眠る自我など全く異なる女性の面を、全く継ぎ目の見えない完璧な、まるで全速疾走で綱渡りをするかのような、危ういギリギリの演技で見せてくれる。ベッドの上で自慰に耽っているときの筋肉の動きと恍惚とした顔、母親に白鳥に抜擢されたことを報告するときの泣き顔、ラストの白鳥が黒鳥に変身して踊っている時の狂気じみた顔を見てほしい。真逆のものが一続きであるのがわかるだろう。もしかしたら『レオン』の時、既に彼女にはこういった相容れない要素を一作品の中で見せてしまう希有な才能を発揮していたのかもしれない。家族を失くして泣きはらす顔、復讐に燃える冷静で知的な顔、大人を誘惑する妖艶な顔。改めてナタリーポートマンの凄さを思い知らされた。
脇を固める俳優も実に適切に配置されている。ヴァンサンカッセルのあの胡散臭く憎たらしい顔、母親役のバーバラハーシーの娘を見る愛憎こもった狂気の笑顔、そしてウィノナ・ライダーの演じる落ちぶれたダンサー。『シザーハンズ』のブロンドの美少女はどこにいったんだと悲しい気分になったし、役があまりに彼女の現状と被る気もしたため、胸が痛む部分もあったけれど、この仕事を引き受けて過激な演技を成し遂げたウィノナには女優魂を見た気がした。
また作品にテンションを与える上で、ニナの背中に現れる謎の引っかき傷、指先の切り傷はとてもうまい演出であると思った。それらは誰もが経験したことがあるであろう恐怖であり、痛みである。またその傷は最終的に彼女の追い求めた完璧さ、快楽へと繋がっていくことも興味深い。痛みによって快楽を知るとは、エミリーディキンソンの詩を思い起こすし、また18世紀のピクチャレスクの概念も思い出す。美と恐怖とは同一であるのだという。
2012年5月7日月曜日
2012年5月6日日曜日
grimes
grimesは聴いた瞬間に、すごいなあ売れるなあと思った。時代の先陣を切ってる感じだ。シンセのサウンドはクラフトワークに通じる暖かいヴィンテージなんだけど、80年代の歌姫を想像させるこの女性ボーカルはすごく良いな。リバーブがかかっているからどことなく、90年代のMassive Attackあたりかコクトーツインズのようなぞっとする荘厳さも加わってるからチルウェイヴ周辺にも気を配っていながら異質な感じがある。リバーブの霧が突如消えてピアノの生音だけのだだっ広い風景が開けたかと思いきや、次の瞬間にはチープなリズムマシンと、オクターブ違いのベース音で王道なディスコミュージックに戻っていく。この空間の使い方、間の置き方とか素晴らしいなと思った。ライブ映像を見たら女の子がシンセの前で1人で全部操作して歌っているじゃないか。こういうのも今っぽい。
Oblivionを聴いて頭に浮かんだのは初期マドンナ。マドンナが2012年を生きる女子だったら、それはGrimesになるんじゃないかとちょっと思ったりした。
2012年5月5日土曜日
アダム・ヤウク、あんたは最高だ。
私が洋楽を意識的に聴き始めた高校生の時に、beastie boysの『To the 5 Boroughs』がちょうどリリースされたと記憶しています。MTVでCh-Check It OutのPVをしょっちゅう見ていました。都会的で知的でな雰囲気を持ちながらも、アホで馬鹿げたとっつきやすさがある彼らは、もしかしたら私にヒップホップ、ひいては洋楽に乗っかる乗車券をくれた存在だったのかもしれないと今になって思います。
ハードコアとヒップホップという過激なフォーマットの上で、あれほど気が抜けていてクールなことができるのはあの3人だけではないでしょうか。僕はこの2つのジャンルが今大好きですが、ビースティーボーイズがいなかったら、たぶん手に取ることはなかったかもしれないとも思います。僕みたいな良い子ちゃんが敬遠しがちであるハードコアやヒップホップと繋がる入り口を用意してくれた彼らはすごく偉大だなと実感しています。感謝しています。
アダム・ヤウクさんは好きでした。3人の中では一番知的で渋い雰囲気を出していて改めて写真を眺めてみると、本当にこれからもっと良いおじさんになったろうなあと考えてしまいます。fight for your rightを久しぶりに聴いてみましたけど、普段の生活で忘れてしまいそうな、自分を取り巻く世界に対する知性とか野性の重要性を思い出させてくれます。現代の世界に必要なことって、ビースティーみたいな人間なんだって思います。並々ならぬエネルギーと物事の本質を見つめる純粋な眼差し、それを支える知性。本当にかっこいい奴らです。
2012年4月27日金曜日
パールジャムのドキュメンタリー
キャメロンクロウが監督したパールジャムのドキュメンタリー映画を見た。パールジャムはグランジを語る時にニルヴァーナと共に欠かせないバンドだ。でも、僕はあんまり聴いたことがなく、『Vs』は聞いた覚えがあるけれど、全く覚えていない。単純にあまり音楽性が好きではないというのがある。ニルヴァーナがパンクよりだとすれば、パールジャムはスタジアムロックという印象で、あまり身体がノってこない。
グランジと言えば、ハードロックの流れを終わらせたムーヴメントとして語られる。ただ、このドキュメンタリーでのグランジという言葉は、当たり前の話だが関係者からはあまり聞かれず、メディア側が勝手に付けたレッテルとして扱われている。キャメロン・クロウはパールジャムというバンドを大きなロック史の流れで捉えることよりは、もっと普遍的な人間関係に焦点を当てている。
私は知らなかったのだが、エディー・ベダーが加入する前に「マザーラブボーン」という前身バンドがあったのだという。そのグループのボーカルであったアンディーがドラッグのオーヴァードーズで帰らぬ人となり、そういった失意と絶望の淵から、エディー・ベダーという若者の送ったボーカル入りデモが再び光をもたらし、パールジャムというバンドがスタートしたらしいのだ。
今でさえ、スタジアムが似合うバンドではあるが、昔の映像の彼らはニルヴァーナも同じく、いかにもシアトル出身のシャイな若者たちによるローカルなバンドという印象を与える。歌詞の内容に関しても、初期のエディーが歌うのは父親との関係である。売れてからもカート・コベインの死、商業主義的な興行との対決、そしてライヴでの死亡事故など、彼らは常に自分たちの現実の中で戦い、それ以上の何も見ていない。有名になっても彼らの幸せは、地下室に行ってみんなで演奏して、レコーディングをして、小さな会場でライヴをやることなのだ。
彼らはアンディーやカート・コベインの死をずっと心に抱え、そしていつでもファンのことを考えて生きている。仲間のために、ファンのために、この精神こそがグランジと呼ばれたムーヴメントの正体なのだ。それは決してハードロックを破壊するために生まれたわけではなく、ロック好きな少年たちの自分自身の居場所を見つけるための戦いであったのだ。
キャメロン・クロウは自伝的作品『あの頃ペニーレインと』でも描かれているが、60年代から70年代のロックのロマンスがあった時代に活躍した音楽ジャーナリストである。あの時代のヒーローたちはみんな公私関係なく格好良かった。全身全霊でロックンロールにぶつかって死んでいったやつらだ。パールジャムはザ・フーやレッドツェッペリン、ニールヤングといった偉大なる先人たちへの崇敬の念を隠さない。キャメロン監督はそういった先人たちの持っていた精神性と通じるものを彼らの中に感じたのだろう。確かにパールジャムにはあの頃のヒーローたちが持っていた真剣さと危うさがあると思う。
音楽を抜きにして、生き様がかっこいいというバンドは、今どれくらいいるだろう。リバティーンズは間違いなくそういうバンドだったと思うが。結局、僕も10代のキッズと同じく、馬鹿みたいに真摯で危うい、神話を作っちゃうような奴らを待ち望んでいる。
グランジと言えば、ハードロックの流れを終わらせたムーヴメントとして語られる。ただ、このドキュメンタリーでのグランジという言葉は、当たり前の話だが関係者からはあまり聞かれず、メディア側が勝手に付けたレッテルとして扱われている。キャメロン・クロウはパールジャムというバンドを大きなロック史の流れで捉えることよりは、もっと普遍的な人間関係に焦点を当てている。
私は知らなかったのだが、エディー・ベダーが加入する前に「マザーラブボーン」という前身バンドがあったのだという。そのグループのボーカルであったアンディーがドラッグのオーヴァードーズで帰らぬ人となり、そういった失意と絶望の淵から、エディー・ベダーという若者の送ったボーカル入りデモが再び光をもたらし、パールジャムというバンドがスタートしたらしいのだ。
今でさえ、スタジアムが似合うバンドではあるが、昔の映像の彼らはニルヴァーナも同じく、いかにもシアトル出身のシャイな若者たちによるローカルなバンドという印象を与える。歌詞の内容に関しても、初期のエディーが歌うのは父親との関係である。売れてからもカート・コベインの死、商業主義的な興行との対決、そしてライヴでの死亡事故など、彼らは常に自分たちの現実の中で戦い、それ以上の何も見ていない。有名になっても彼らの幸せは、地下室に行ってみんなで演奏して、レコーディングをして、小さな会場でライヴをやることなのだ。
彼らはアンディーやカート・コベインの死をずっと心に抱え、そしていつでもファンのことを考えて生きている。仲間のために、ファンのために、この精神こそがグランジと呼ばれたムーヴメントの正体なのだ。それは決してハードロックを破壊するために生まれたわけではなく、ロック好きな少年たちの自分自身の居場所を見つけるための戦いであったのだ。
キャメロン・クロウは自伝的作品『あの頃ペニーレインと』でも描かれているが、60年代から70年代のロックのロマンスがあった時代に活躍した音楽ジャーナリストである。あの時代のヒーローたちはみんな公私関係なく格好良かった。全身全霊でロックンロールにぶつかって死んでいったやつらだ。パールジャムはザ・フーやレッドツェッペリン、ニールヤングといった偉大なる先人たちへの崇敬の念を隠さない。キャメロン監督はそういった先人たちの持っていた精神性と通じるものを彼らの中に感じたのだろう。確かにパールジャムにはあの頃のヒーローたちが持っていた真剣さと危うさがあると思う。
音楽を抜きにして、生き様がかっこいいというバンドは、今どれくらいいるだろう。リバティーンズは間違いなくそういうバンドだったと思うが。結局、僕も10代のキッズと同じく、馬鹿みたいに真摯で危うい、神話を作っちゃうような奴らを待ち望んでいる。
2012年4月25日水曜日
マルクスブラザース、チャップリン、ウディーアレン、北野武の笑い。
マルクス兄弟の作品は面白い。アダルトビデオの話ではない。アメリカのコメディ映画の話だ。ちょびヒゲのグルーチョの口から放たれるジョークやギャグの切れは素晴らしいし、あの腰が抜けたような歩き方もおかしい。ハーポの道化っぷりとあの可愛らしさ、そしてハープ演奏には目を見張るものがある。そしてチコのずる賢い顔とハーポとのやり取りは完璧で、彼の一本指で弾くピアノも最高だ。
彼らの作品はどれも舞台設定が変わるだけで、やっていることは同じだ。グルーチョとチコとハーポが美男美女のロマンスに絡むように暴れ回る。出てくるギャグも一緒。でも何度見ても笑ってしまう。1930年代のコメディを見て2012年を生きる20代の男が笑っている。それ自体とてもおかしいことのようだ。
「笑い」というのは不思議だ。単に面白いから笑うだけでなく、悲しい場面でも笑うし(例えば、葬式でお経を読んでいる時など)、ジャックニコルソンお得意の狂気の笑いというものもある。もちろん、マルクス兄弟の笑いはただ単純に面白いという原因から起こる笑いだろう。悲しさは微塵もない。バスターキートンはいつも無表情でおかしなことやる。これはちょっとグルーチョのやり方と似ている。そして、ウディーアレンもこの系譜だろうか。特に初期のウディーはだいたいそうだろう。真面目にやろうとしているのにそれが反って滑稽になってしまう男を演じるのがうまい。例えば、女の子とセックスをする前に部屋の窓を閉めようとするけど窓が全然閉まらない。あとは、かっこよく脚を組み替えようとして、目の前のテーブルに載った食事を全部ひっくり返してしまうとか。あとウディーで個人的に好きなのは、哲学用語を使って女の子と喧嘩する場面だ。これも真面目な言葉を使っていながらとても滑稽なのだ。
チャップリンはどうしても悲劇的な感じが付いて回るようなイメージだ。僕はチャップリンのコメディが苦手なのは、政治とか社会問題に妙に首を突っ込んでしまっているところなのだ。笑えるけど、悲しい。これはチェーホフの得意とするところだが、チャップリンのはまた少し違う。喜びと悲しみの感情が表裏一体であるチェーホフに対して、チャップリンではそれは分離していると思う。そういう感情の明白な転換についていけないのだ。
マルクス兄弟のコメディはチャップリンに比べれば、映画と言えるレベルではないのかもしれない。ただ映画は娯楽である。それはファンタスマゴリアと呼ばれた時代からそうなのだ。もともと人々をびっくりさせてやろうという子供じみた好奇心からできたのだ。チャップリンはコメディー映画を単なる娯楽という次元から引き上げた功績には素晴らしいものがあるが、マルクス兄弟の職人芸もそれと同じくらい評価されるべきであろう。
コメディーを手段として使うということがチャップリンではよくある。目的ではなく、正面からは到底太刀打ちできないもっと大きなものを攻撃したりするための武器として。ただこれを勘違いして、真実自体を隠すための手段として笑いを使う人間もでてきてしまった。アート・スピーゲルマンはロベルトベニーニの『ライフイズビューティフル』を、アウシュビッツ問題を抽象化し、一般的な悲劇化してしまったといって痛烈に批判する。ベニーニは息子と収容所に収監されてしまう。しかし、ベニーニはそれをゲームだといって息子に真実を見えないようにする。笑いはそこでは何かを暴露するためではなく、巧妙に隠す手段として使われてしまっている。
チャップリンは結局、コメディーから逸脱して、その土台の上で演説をしているように感じるときがあるが、ウディーアレンがやる笑いは、コメディーから逸脱しないことを徹底していると思う。普段では言いにくい上流階級への皮肉、人種問題、性の問題などを笑いによって揺さぶり、逆に真実を浮かび上がらせる。ベニーニがやったことはその逆になってしまった。結局、深刻な問題を笑いに変えるのではなく、それを見ようとする観客に対して、目の前で踊ってみせることで気をそらせたに過ぎないのだ。だから、あの映画を見て心底笑うなんてことは無理だ。見た後に腑に落ちない気分にもなる。
日本においても、テレビの笑いは何かを隠してしまっている笑いになっている気がする。深刻な問題を笑いに変えられる人物はあまりいない、爆笑問題がチャレンジしていると思うが。現在の吉本興業代表する笑いというのは、こちら側に笑うための土台を必要する場合が多い。身内の暴露話やお決まりのネタ、文脈がある程度わからないと笑えない、人物を知っていないと笑えないということをやっていることがあると思う。多分、彼らのひとりが深刻な人種問題を持ち出そうものなら、編集によってすぐにカットされるであろうし、その人はもう番組に呼ばれないのかもしれない。それは推測だが、これだけは明白だ。たぶん、観客は静まり返るということは。
ある一定の雰囲気の中で起こる笑いとは、世間との摩擦、違和感の交差するところで笑わせた先人たちの笑いとはまったく違う。あまり僕は好きではない。笑いはもっと原始的で、暴力的あると思うからだ。ビートたけしがやる笑いは、暴力だ。やりすぎなのではないか、保守的な父兄が抗議をしてくるような、ギリギリの笑いである。そして、北野武がやる笑いは、いつも死と隣り合わせでいる。ヒリヒリとしている。笑いの中に狂気も愛もあるし、その笑いの外にもっと大きな人間の生と死を浮かび上がらせている。テレビではマルクス兄弟のような原型的な笑いを行い、映画においてはもっと笑いという感情の奥底を見つめる。ウディーアレンもそうだろう。
笑いは暴力だ。北野武が『CUT』のインタビューでそんなことを言っていたと思う。ということは、笑いはもっとも原始的な人間の形であるということだ。暴力とは権力や建前を壊すために使われ、そしていつも権力側によって隠すためにも使われてきた。笑いもそうなのだ。さあ、僕らがやらなければいけない笑いはどちらだろうか?
彼らの作品はどれも舞台設定が変わるだけで、やっていることは同じだ。グルーチョとチコとハーポが美男美女のロマンスに絡むように暴れ回る。出てくるギャグも一緒。でも何度見ても笑ってしまう。1930年代のコメディを見て2012年を生きる20代の男が笑っている。それ自体とてもおかしいことのようだ。
「笑い」というのは不思議だ。単に面白いから笑うだけでなく、悲しい場面でも笑うし(例えば、葬式でお経を読んでいる時など)、ジャックニコルソンお得意の狂気の笑いというものもある。もちろん、マルクス兄弟の笑いはただ単純に面白いという原因から起こる笑いだろう。悲しさは微塵もない。バスターキートンはいつも無表情でおかしなことやる。これはちょっとグルーチョのやり方と似ている。そして、ウディーアレンもこの系譜だろうか。特に初期のウディーはだいたいそうだろう。真面目にやろうとしているのにそれが反って滑稽になってしまう男を演じるのがうまい。例えば、女の子とセックスをする前に部屋の窓を閉めようとするけど窓が全然閉まらない。あとは、かっこよく脚を組み替えようとして、目の前のテーブルに載った食事を全部ひっくり返してしまうとか。あとウディーで個人的に好きなのは、哲学用語を使って女の子と喧嘩する場面だ。これも真面目な言葉を使っていながらとても滑稽なのだ。
チャップリンはどうしても悲劇的な感じが付いて回るようなイメージだ。僕はチャップリンのコメディが苦手なのは、政治とか社会問題に妙に首を突っ込んでしまっているところなのだ。笑えるけど、悲しい。これはチェーホフの得意とするところだが、チャップリンのはまた少し違う。喜びと悲しみの感情が表裏一体であるチェーホフに対して、チャップリンではそれは分離していると思う。そういう感情の明白な転換についていけないのだ。
マルクス兄弟のコメディはチャップリンに比べれば、映画と言えるレベルではないのかもしれない。ただ映画は娯楽である。それはファンタスマゴリアと呼ばれた時代からそうなのだ。もともと人々をびっくりさせてやろうという子供じみた好奇心からできたのだ。チャップリンはコメディー映画を単なる娯楽という次元から引き上げた功績には素晴らしいものがあるが、マルクス兄弟の職人芸もそれと同じくらい評価されるべきであろう。
コメディーを手段として使うということがチャップリンではよくある。目的ではなく、正面からは到底太刀打ちできないもっと大きなものを攻撃したりするための武器として。ただこれを勘違いして、真実自体を隠すための手段として笑いを使う人間もでてきてしまった。アート・スピーゲルマンはロベルトベニーニの『ライフイズビューティフル』を、アウシュビッツ問題を抽象化し、一般的な悲劇化してしまったといって痛烈に批判する。ベニーニは息子と収容所に収監されてしまう。しかし、ベニーニはそれをゲームだといって息子に真実を見えないようにする。笑いはそこでは何かを暴露するためではなく、巧妙に隠す手段として使われてしまっている。
チャップリンは結局、コメディーから逸脱して、その土台の上で演説をしているように感じるときがあるが、ウディーアレンがやる笑いは、コメディーから逸脱しないことを徹底していると思う。普段では言いにくい上流階級への皮肉、人種問題、性の問題などを笑いによって揺さぶり、逆に真実を浮かび上がらせる。ベニーニがやったことはその逆になってしまった。結局、深刻な問題を笑いに変えるのではなく、それを見ようとする観客に対して、目の前で踊ってみせることで気をそらせたに過ぎないのだ。だから、あの映画を見て心底笑うなんてことは無理だ。見た後に腑に落ちない気分にもなる。
日本においても、テレビの笑いは何かを隠してしまっている笑いになっている気がする。深刻な問題を笑いに変えられる人物はあまりいない、爆笑問題がチャレンジしていると思うが。現在の吉本興業代表する笑いというのは、こちら側に笑うための土台を必要する場合が多い。身内の暴露話やお決まりのネタ、文脈がある程度わからないと笑えない、人物を知っていないと笑えないということをやっていることがあると思う。多分、彼らのひとりが深刻な人種問題を持ち出そうものなら、編集によってすぐにカットされるであろうし、その人はもう番組に呼ばれないのかもしれない。それは推測だが、これだけは明白だ。たぶん、観客は静まり返るということは。
ある一定の雰囲気の中で起こる笑いとは、世間との摩擦、違和感の交差するところで笑わせた先人たちの笑いとはまったく違う。あまり僕は好きではない。笑いはもっと原始的で、暴力的あると思うからだ。ビートたけしがやる笑いは、暴力だ。やりすぎなのではないか、保守的な父兄が抗議をしてくるような、ギリギリの笑いである。そして、北野武がやる笑いは、いつも死と隣り合わせでいる。ヒリヒリとしている。笑いの中に狂気も愛もあるし、その笑いの外にもっと大きな人間の生と死を浮かび上がらせている。テレビではマルクス兄弟のような原型的な笑いを行い、映画においてはもっと笑いという感情の奥底を見つめる。ウディーアレンもそうだろう。
笑いは暴力だ。北野武が『CUT』のインタビューでそんなことを言っていたと思う。ということは、笑いはもっとも原始的な人間の形であるということだ。暴力とは権力や建前を壊すために使われ、そしていつも権力側によって隠すためにも使われてきた。笑いもそうなのだ。さあ、僕らがやらなければいけない笑いはどちらだろうか?
2012年4月22日日曜日
2012年4月12日木曜日
レイモンド・カーヴァーは肉体的だ
最近レイモンド・カーヴァーの短編を集中して読んでいる。僕は去年から英語で書かれた小説に関しては原文で読むというルールを自分に課したのだが、やはりまだまだ自分の英語力ではピンチョンやパワーズのような博覧強記の作家の書く英語を理解することは難しく、ついこの間もヘンリーミラーの『Tropic of cancer』のあまりの比喩の多さと長大さに屈したばかりだ。
そんな中出会ったのがカーヴァーである。彼は言わずと知れたアメリカ現代文学を代表する短編小説の名手だ。村上春樹が翻訳を出しているので、日本でも知名度は抜群であろう。短編であれば挫折する心配はないし、村上春樹が紹介しているとなれば面白いに決まっていると思い、彼の処女短編集『Will you please be quiet, please?』(邦題は『頼むから静かにしてくれ』)のペーパーバックを購入したのだった。
読み始めて最初に気づくのが、その文章の平易さである。難しい単語はほぼ使われていないし、言い回しに関してもくどい比喩表現は全くない。ただ淡々と状況を描写する言葉が並んでいる。無駄な部分は一切ない。これはヘミングウェイの短編を読んだときの感覚に近いものがある。この文体を見ただけでレイモンドカーヴァーが非常に肉体的な作家であることがわかる。扱うテーマも文章と同じく浮ついてはいない。私たちの日常で起こりうること、例えば学校をさぼって釣りに行く少年の話とか、レストランに来る太った男の話だとか、どれも自分の周りにいそうな人物であったり、出来事である。
カーヴァーのすごいところは、何の変哲もない日常の風景を面白く、恐ろしく描けるところにある。そういってしまうと簡単だが、カーヴァーの日常から何か深いものを浮かび上がらせる力は本当に天才的だ。言葉の使い方や言い回しでその面白さや恐ろしさを表すのではない。言葉はこの上なく平易で変なトリックも使っていない。しかし言葉と言葉の隙間からこちらを覗く存在がいることを読者は目の端で常に意識することになる。それは言葉では言い表すのが難しい。
カーヴァーの世界では全てのものの背後にその「こちらを覗く存在」がいる。彼の作品では会話が中心になることが多いのだが、登場人物たちの会話はとても自然で間の取り方も絶妙だ。違和感なく読者も一緒の席に座っているような気分になる。そして会話自体や会話の途中での登場人物たちの手の置き場所、目線の移動、はたまた彼らを取り巻くテーブルやイス、消えたテレビ、飼っている猫などそこにある全てのものの背後に「こちらを覗く存在」がいる。
人間と人間の関係には、どうしても乗り越えられない不和がある。カーヴァーの紡ぐ言葉の行間から覗く存在とは、人間存在の根源に繋がるものだと思う。
カーヴァーは、ヘミングウェイやフラナリー・オコナーを好んで読んでいたこともあるらしい。ただ彼の文体には、彼自身の人生経験が大きく反映している。父のクレヴィー・レイモンド・カーヴァーの死、結婚、師ジョン・ガードナーとの邂逅。
中でもカーヴァーに最も書くことについて教えてくれた人は、彼の2人の子どもたちだという。
"I have to say that the greatest single influence on my life, and on my writing, directly and indirectly, has my two children. "(『FIRES』P.31)
若いカーヴァーにとって、子どもたちの存在は大きな希望というよりむしろ絶望を与えた。彼は家族を支えるために、製材工場働き他にも清掃員や配達員、夏はチューリップ摘みなど様々な仕事に追われ、非常に貧しい暮らしを強いられていた。彼はそんな中で、1、2時間の空いた時間を作って、作品を書いていたのだ。限られた時間の中では、長編小説を書くような集中力を保つことは難しい、そして毎日の暮らしに忙殺されているカーヴァーは、自分と全く関係ない世界の出来事を書こうとも思わなかった。こうして、彼は自分の生活の中で特異な文体を獲得したのである。
だから彼の作品の多くは諦念や絶望があるにも関わらず、生きて行こうとするわずかな希望も残しているように見える。道が開けるというような大きな希望が前にあるわけではなく、かろうじて今この瞬間、私の足元には道が続いている、という類の希望である。
僕は"To look up or down no road but it stretches and waits for you, however long but it stretches and wait for you, "というウォルト・ホイットマンの詩『Song of the Open Road』の一節を思い出す。道が続いていますように、カーヴァーが子どもたちの世話や仕事に追われながら、こう祈っている声が聞こえてくる気がする。
カーヴァーは70年代、アルコール依存症に苦しんだ。そして見事克服するのだが、今度は癌に冒され、1988年に50歳の若さでこの世を去った。私は今、彼の最高傑作との呼び声高い『CATHEDRAL』を読んでいる。私の印象では、彼は自分の知っている世界しか書かないとはいえ、決して自伝的に記憶をたどって書く訳ではない。彼は柴田元幸氏の言葉を借りれば、「読者的な作家」である。彼自身、自分の書く小説の筋を書く前から把握してはいず、先に少し見える光を頼りに目の前を掘り進んで行く。どこに出るかは本人もわかっていない。だから彼の小説の人物たちは、とても生き生きしていて妙に型にはまっていない。そこがカーヴァーの大きな魅力の一つだと思う。ただ『CATHEDRAL』の中では、少し物語を近くに置いているというよりは、自分自身の懐近くに置きすぎているように感じる。アルコール依存の男の話などはやはりカーヴァー自身を思い起こさずにはいられない。それはカーヴァーにのめり込みすぎている自分のせいなのかもしれないが。ただ今のところ、僕にとって一番信頼できる作家はカーヴァーであることは変わらない。
そんな中出会ったのがカーヴァーである。彼は言わずと知れたアメリカ現代文学を代表する短編小説の名手だ。村上春樹が翻訳を出しているので、日本でも知名度は抜群であろう。短編であれば挫折する心配はないし、村上春樹が紹介しているとなれば面白いに決まっていると思い、彼の処女短編集『Will you please be quiet, please?』(邦題は『頼むから静かにしてくれ』)のペーパーバックを購入したのだった。
読み始めて最初に気づくのが、その文章の平易さである。難しい単語はほぼ使われていないし、言い回しに関してもくどい比喩表現は全くない。ただ淡々と状況を描写する言葉が並んでいる。無駄な部分は一切ない。これはヘミングウェイの短編を読んだときの感覚に近いものがある。この文体を見ただけでレイモンドカーヴァーが非常に肉体的な作家であることがわかる。扱うテーマも文章と同じく浮ついてはいない。私たちの日常で起こりうること、例えば学校をさぼって釣りに行く少年の話とか、レストランに来る太った男の話だとか、どれも自分の周りにいそうな人物であったり、出来事である。
カーヴァーのすごいところは、何の変哲もない日常の風景を面白く、恐ろしく描けるところにある。そういってしまうと簡単だが、カーヴァーの日常から何か深いものを浮かび上がらせる力は本当に天才的だ。言葉の使い方や言い回しでその面白さや恐ろしさを表すのではない。言葉はこの上なく平易で変なトリックも使っていない。しかし言葉と言葉の隙間からこちらを覗く存在がいることを読者は目の端で常に意識することになる。それは言葉では言い表すのが難しい。
カーヴァーの世界では全てのものの背後にその「こちらを覗く存在」がいる。彼の作品では会話が中心になることが多いのだが、登場人物たちの会話はとても自然で間の取り方も絶妙だ。違和感なく読者も一緒の席に座っているような気分になる。そして会話自体や会話の途中での登場人物たちの手の置き場所、目線の移動、はたまた彼らを取り巻くテーブルやイス、消えたテレビ、飼っている猫などそこにある全てのものの背後に「こちらを覗く存在」がいる。
人間と人間の関係には、どうしても乗り越えられない不和がある。カーヴァーの紡ぐ言葉の行間から覗く存在とは、人間存在の根源に繋がるものだと思う。
カーヴァーは、ヘミングウェイやフラナリー・オコナーを好んで読んでいたこともあるらしい。ただ彼の文体には、彼自身の人生経験が大きく反映している。父のクレヴィー・レイモンド・カーヴァーの死、結婚、師ジョン・ガードナーとの邂逅。
中でもカーヴァーに最も書くことについて教えてくれた人は、彼の2人の子どもたちだという。
"I have to say that the greatest single influence on my life, and on my writing, directly and indirectly, has my two children. "(『FIRES』P.31)
若いカーヴァーにとって、子どもたちの存在は大きな希望というよりむしろ絶望を与えた。彼は家族を支えるために、製材工場働き他にも清掃員や配達員、夏はチューリップ摘みなど様々な仕事に追われ、非常に貧しい暮らしを強いられていた。彼はそんな中で、1、2時間の空いた時間を作って、作品を書いていたのだ。限られた時間の中では、長編小説を書くような集中力を保つことは難しい、そして毎日の暮らしに忙殺されているカーヴァーは、自分と全く関係ない世界の出来事を書こうとも思わなかった。こうして、彼は自分の生活の中で特異な文体を獲得したのである。
だから彼の作品の多くは諦念や絶望があるにも関わらず、生きて行こうとするわずかな希望も残しているように見える。道が開けるというような大きな希望が前にあるわけではなく、かろうじて今この瞬間、私の足元には道が続いている、という類の希望である。
僕は"To look up or down no road but it stretches and waits for you, however long but it stretches and wait for you, "というウォルト・ホイットマンの詩『Song of the Open Road』の一節を思い出す。道が続いていますように、カーヴァーが子どもたちの世話や仕事に追われながら、こう祈っている声が聞こえてくる気がする。
カーヴァーは70年代、アルコール依存症に苦しんだ。そして見事克服するのだが、今度は癌に冒され、1988年に50歳の若さでこの世を去った。私は今、彼の最高傑作との呼び声高い『CATHEDRAL』を読んでいる。私の印象では、彼は自分の知っている世界しか書かないとはいえ、決して自伝的に記憶をたどって書く訳ではない。彼は柴田元幸氏の言葉を借りれば、「読者的な作家」である。彼自身、自分の書く小説の筋を書く前から把握してはいず、先に少し見える光を頼りに目の前を掘り進んで行く。どこに出るかは本人もわかっていない。だから彼の小説の人物たちは、とても生き生きしていて妙に型にはまっていない。そこがカーヴァーの大きな魅力の一つだと思う。ただ『CATHEDRAL』の中では、少し物語を近くに置いているというよりは、自分自身の懐近くに置きすぎているように感じる。アルコール依存の男の話などはやはりカーヴァー自身を思い起こさずにはいられない。それはカーヴァーにのめり込みすぎている自分のせいなのかもしれないが。ただ今のところ、僕にとって一番信頼できる作家はカーヴァーであることは変わらない。
2012年4月3日火曜日
ポップミュージックの考察(ももいろクローバーzも含め)
ロックンロールリバイバルムーヴメント全盛期である00年代前半、毎日MTVにかじり付いていたひとりの少年は、その日も学校から帰ってくるとブラウン管の前にいた。ホワイトストライプスのライヴが始まるところだったが、バンドが登場する前に、みすぼらしい格好をした禿げ親父(そうだ、その人はR.E.Mのマイケル・スタイプであった。)がカメラ前に出てきてこういった。「ロックは死んだなんて言われている。この男女2人を見てもまだそんなことが言えるのか?」
確かにあのとき、束の間ロックンロールは生き返ったのかもしれない。まるで磔にされたキリストが復活したかのように。ただ今はどうなのだろう。ポップミュージック全体を見渡してみても、ヒップホップの方面で新たな動きが見られるかもしれないが、シーン全体を何年にも渡って揺さぶるインパクトと目新しさはあるのだろうか。
音楽のフロンティアを探し求める動きは、1970年代がピークであったと思う。西側と東側によって分断された都市の閉塞感と緊張感、また逆にアフリカの開放的でフィジカルな魅力に溢れたビート、それらの要素をアメリカのような豊かさとその前向きなパワーによって支えられた世界が発見した時に生まれた数々の素晴らしい結晶としての音楽。それは現実世界では決して和解することがない人類を、音楽というひとつの思想によって繋いだ奇跡的な時代なのではないかと思う。またその後に起こったニューヨークのパンクロッカーを発端にした揺り戻しも入れると、この10年にポップミュージックの歴史が集約されているような気になってくる。
果たして現代の音楽に、今まで発見されていない価値観を持ったものが現れるかどうか疑問である。物語の形式は粗方使い尽くされ、もう残っているのは言葉によって形骸化した音楽とは言えないような音楽のガラクタだけではないか。しかし、ブルックリン周辺とかロサンゼルスといった地域で最近起こった60年代のサイケデリックロックの狂人たちの音、1980 年代のギラギラしたシンセの音を掘り起こしたグループ、MGMTやLCD SOUNDSYSTEMはそんな現代においての音楽の進むべき道の一つを示したように思える。
彼らはまず先人たちが歩んだ歴史に敬意を表す。膨大な量の音楽をインターネットも使って発見して消化し、当時のヴィンテージ機材を使いもする。そして明らかに歴史をそのまま固定化され横たわる死んだ歴史として捉えることをせず、それが自分たちの手で再編可能な生きたものとして歴史を捉えている。それは彼らの音楽の中には、当時は日の目を見ることがほとんどなかったようなカルトヒーローを臆することなく称賛し、引用するような態度が見られることからわかる。ポップミュージック史の中で、たぶんそのままにしていたら埋もれて二度と浮かび上がることはなかったような人たちを彼らは発掘したのだ。それはやはりYOUTUBEによって過去の音源や映像が発見しやすくなったことが多分に関係していると思われるが、彼ら自身の現代ポップミュージックの現状に対する批評眼と知的情熱をがなしえた達成であることは間違いなく言える。
1人1台のパソコンを簡単に持てる時代になったことは明らかに、上に挙げた知的な人々に最強の武器を与えることになったのだと思う。それは音楽だけではなくあらゆる芸術媒体に革命的な出来事であるにちがいないが。立派なスタジオで録音しなければ得られなかったような音がオーディオインターフェイスとMIDIキーボードさえあれば瞬時に手に入れることができるという点で、その中でも音楽に一番の衝撃を与えただろう。ロックスターは死んだ、しかし、今や自分の部屋で自分だけの音楽を作る環境を手に入れたのだから、みんながみんなロックスターのようなものである。
ミュージシャンは作家に近づいたように思える。自分だけの物語を書き、世界との調和を果たす現代作家のような存在に。だからNo ageやGIRLSのようなカリフォルニアを拠点とするバンドのように、とてもローカルに根付いていて、音楽に関しても売れることよりは、自分たちのコミュニティーを作り上げることを目指すような人たちも増えてきている。これはアメリカ的というよりは日本的な私小説文化に近いところがある。外の世界に対して何かを突きつけるというよりは自分たちの狭いコミュニティー内で充足することを目的とするような感覚だ。こういった動きは非常に興味深いが、私はこのラップトップによる音楽制作(DTM)が70年代の革新性と80年代の非常にスケールが大きく大衆的なポップミュージックを兼ね備えたような、力の強い音楽を作ることができるのではないかと思っている。
ももいろクローバーZ。このグループ、というかこのグループを取り巻くプロジェクト全てもまたこれからの音楽が進むべき一つの道である、と私は強くそう思っている。彼女たちの特徴はアイドルソングとは相容れないと思われるロック、パンク、ヘビーメタル、エレクトロ、ミュージカル音楽、ガムラン音楽など多彩なジャンルを取り入れて、それを全力の歌とダンスで歌い上げるというものだ。曲の提供はヒャダインとNARASAKIという2人の人物が中心となっている。彼女らの代表曲であるピンキージョーンズは最大トラック数を使用して、音を重ねているという。これは面白いと思った。ビートルズは後期にやっと8トラック録音ができるような時代だったと思うが、40年ほどの月日を経て、個人が120を越える多重録音ができる時代になったこと、そして一般家庭レベルに導入が可能になったこと、これは現代の特性ではないか。
圧倒的な情報が匿名性を帯びたネット住民たちによって流され消費される現代を映し出す音楽とは、圧倒的な情報量と匿名性の高い解析された音楽ジャンルの多彩さとを組み合わせたものであって良いと思う。それはひとつの明快な現代のポップミュージックへの解答であると思う。そこに生身の人間の、今をまさに生きている若者の熱が加わること、ポップミュージックの根幹となる、それは多くの人々に共有されるような、とても原始的な感情を呼び起こすようなものでなければならない。歴史と一続きで連なり、それでいて前に突き進む「物語」が出来上がった時、それは現代のポップミュージックと言えるものになるのではないか。
ロックは死んだ。それは認めるべきかもしれない。ただ根にある本能が死ぬことはないし、現代にしかできないことというのはかろうじて存在している。それを実践しているのがアイドルグループであるとしても、少なくとも僕にはそう思える、保守的なポップミュージックファンにはあんなもの気持ち悪いと猛烈に怒る人もいるだろうけれど、僕はそういう人たちを見ると嬉しくなってしまう。新しい表現はいつだって最初は醜い、という有名な芸術に関する箴言を逆説的に彼らは認めているようなものだから。
確かにあのとき、束の間ロックンロールは生き返ったのかもしれない。まるで磔にされたキリストが復活したかのように。ただ今はどうなのだろう。ポップミュージック全体を見渡してみても、ヒップホップの方面で新たな動きが見られるかもしれないが、シーン全体を何年にも渡って揺さぶるインパクトと目新しさはあるのだろうか。
音楽のフロンティアを探し求める動きは、1970年代がピークであったと思う。西側と東側によって分断された都市の閉塞感と緊張感、また逆にアフリカの開放的でフィジカルな魅力に溢れたビート、それらの要素をアメリカのような豊かさとその前向きなパワーによって支えられた世界が発見した時に生まれた数々の素晴らしい結晶としての音楽。それは現実世界では決して和解することがない人類を、音楽というひとつの思想によって繋いだ奇跡的な時代なのではないかと思う。またその後に起こったニューヨークのパンクロッカーを発端にした揺り戻しも入れると、この10年にポップミュージックの歴史が集約されているような気になってくる。
果たして現代の音楽に、今まで発見されていない価値観を持ったものが現れるかどうか疑問である。物語の形式は粗方使い尽くされ、もう残っているのは言葉によって形骸化した音楽とは言えないような音楽のガラクタだけではないか。しかし、ブルックリン周辺とかロサンゼルスといった地域で最近起こった60年代のサイケデリックロックの狂人たちの音、1980 年代のギラギラしたシンセの音を掘り起こしたグループ、MGMTやLCD SOUNDSYSTEMはそんな現代においての音楽の進むべき道の一つを示したように思える。
彼らはまず先人たちが歩んだ歴史に敬意を表す。膨大な量の音楽をインターネットも使って発見して消化し、当時のヴィンテージ機材を使いもする。そして明らかに歴史をそのまま固定化され横たわる死んだ歴史として捉えることをせず、それが自分たちの手で再編可能な生きたものとして歴史を捉えている。それは彼らの音楽の中には、当時は日の目を見ることがほとんどなかったようなカルトヒーローを臆することなく称賛し、引用するような態度が見られることからわかる。ポップミュージック史の中で、たぶんそのままにしていたら埋もれて二度と浮かび上がることはなかったような人たちを彼らは発掘したのだ。それはやはりYOUTUBEによって過去の音源や映像が発見しやすくなったことが多分に関係していると思われるが、彼ら自身の現代ポップミュージックの現状に対する批評眼と知的情熱をがなしえた達成であることは間違いなく言える。
1人1台のパソコンを簡単に持てる時代になったことは明らかに、上に挙げた知的な人々に最強の武器を与えることになったのだと思う。それは音楽だけではなくあらゆる芸術媒体に革命的な出来事であるにちがいないが。立派なスタジオで録音しなければ得られなかったような音がオーディオインターフェイスとMIDIキーボードさえあれば瞬時に手に入れることができるという点で、その中でも音楽に一番の衝撃を与えただろう。ロックスターは死んだ、しかし、今や自分の部屋で自分だけの音楽を作る環境を手に入れたのだから、みんながみんなロックスターのようなものである。
ミュージシャンは作家に近づいたように思える。自分だけの物語を書き、世界との調和を果たす現代作家のような存在に。だからNo ageやGIRLSのようなカリフォルニアを拠点とするバンドのように、とてもローカルに根付いていて、音楽に関しても売れることよりは、自分たちのコミュニティーを作り上げることを目指すような人たちも増えてきている。これはアメリカ的というよりは日本的な私小説文化に近いところがある。外の世界に対して何かを突きつけるというよりは自分たちの狭いコミュニティー内で充足することを目的とするような感覚だ。こういった動きは非常に興味深いが、私はこのラップトップによる音楽制作(DTM)が70年代の革新性と80年代の非常にスケールが大きく大衆的なポップミュージックを兼ね備えたような、力の強い音楽を作ることができるのではないかと思っている。
ももいろクローバーZ。このグループ、というかこのグループを取り巻くプロジェクト全てもまたこれからの音楽が進むべき一つの道である、と私は強くそう思っている。彼女たちの特徴はアイドルソングとは相容れないと思われるロック、パンク、ヘビーメタル、エレクトロ、ミュージカル音楽、ガムラン音楽など多彩なジャンルを取り入れて、それを全力の歌とダンスで歌い上げるというものだ。曲の提供はヒャダインとNARASAKIという2人の人物が中心となっている。彼女らの代表曲であるピンキージョーンズは最大トラック数を使用して、音を重ねているという。これは面白いと思った。ビートルズは後期にやっと8トラック録音ができるような時代だったと思うが、40年ほどの月日を経て、個人が120を越える多重録音ができる時代になったこと、そして一般家庭レベルに導入が可能になったこと、これは現代の特性ではないか。
圧倒的な情報が匿名性を帯びたネット住民たちによって流され消費される現代を映し出す音楽とは、圧倒的な情報量と匿名性の高い解析された音楽ジャンルの多彩さとを組み合わせたものであって良いと思う。それはひとつの明快な現代のポップミュージックへの解答であると思う。そこに生身の人間の、今をまさに生きている若者の熱が加わること、ポップミュージックの根幹となる、それは多くの人々に共有されるような、とても原始的な感情を呼び起こすようなものでなければならない。歴史と一続きで連なり、それでいて前に突き進む「物語」が出来上がった時、それは現代のポップミュージックと言えるものになるのではないか。
ロックは死んだ。それは認めるべきかもしれない。ただ根にある本能が死ぬことはないし、現代にしかできないことというのはかろうじて存在している。それを実践しているのがアイドルグループであるとしても、少なくとも僕にはそう思える、保守的なポップミュージックファンにはあんなもの気持ち悪いと猛烈に怒る人もいるだろうけれど、僕はそういう人たちを見ると嬉しくなってしまう。新しい表現はいつだって最初は醜い、という有名な芸術に関する箴言を逆説的に彼らは認めているようなものだから。
2012年3月27日火曜日
ドラゴンタトゥーの女
世界を変えることはできないと嘆いている若者がいる一方で、ドラゴンタトゥーの女の主人公リズベットと『ソーシャルネットワーク』のザッカーバーグは、正義と悪という二項対立の支配する世界を相手に、全く別の世界を築くことで対抗する。
彼らは確かに、そびえる巨大な悪、トムヨークが歌い、ハルキムラカミが書くような得体の知れない巨大な、それでいて姿の見えないものに対して、勝利を収めた。半ば強引な方法で。しかし、ここで言う世界とは目の前に在る世界とは同義ではない。現実の中でリズベットはその中ではひたすら搾取され、抑圧されている。ただ彼女もザッカーバーグもそいつらにケツを振らないでいられる場所を知っている。それがネット世界だ。
ネット世界はこれまたひとつの別の世界を形作る道具だ。それはリズベットやザッカーバーグが縦横無尽に空を飛ぶ夢の世界だ。彼らはその中で彼ら自身の物語を構築していく。そしてそれは現実の世界に対して拮抗するほどの力を持つ。ということは、彼らは現実世界でやはり世界に勝利しているとは言えないのだ。世界に真っ向からぶつかれば、やはりリズベットはレイプされるし、ザッカーバーグも裁判で不利な状況に持ち込まれもする。
彼らは決して世界を変えることはできない。ただ、彼らは自分たちの世界を作ることはできる。その中で彼らは勝利を収めることができる。ここにはペシミスティックな感情はない。現実世界に対峙した時に、彼らが屈服することで生きていく以外の方法を見つけるためにそうせざるを得なかったのだ。
彼らは2人とも愛を得られない。愛とは他人との摩擦によってしか、異物との生の接触によってしか生まれないものだ。だから、彼らは自分の世界を作り上げることができたとしても、結局そこには自分しかいないわけで、他者を必要とする「愛」を得ることができないのかもしれない。かといって、他人に対して奉仕するような愛が救済になるとは思えない。結局は人は何かを失うことで何かを得るという『市民ケーン』や『エデンの東』に出てくる古いアメリカンヒーローの哀愁漂う姿が現れる。かつてヘミングウェイはガートルード・スタインに「あなたは失われた世代よ。」といわれた。ヘミングウェイは「どの世代だって何かを失っているのだ。」と反発心を抱いたという。失うことは何かを欠くということではない、それは得ることと同じといってもよいと僕は思う。
デヴィットフィンチャーはこの複雑な世界に対して明確な回答を用意しているわけではない。そこがポイントである。正義と悪、世界と個人、といった二項対立ではもうこの世界を理解することは不可能だ、何が正解で何が間違いなのか、それは多角的に降り注ぐ視線の前に全く意味を成さなくなる。そういった9.11以降の価値観を踏まえている。しかも1950年代のアメリカンヒーローが辿る悲劇的な愛の物語と地続きであることも忘れない。新しいヒーローの姿がおぼろげに、しかし徐々に明瞭さを帯びて見えてこないだろうか。
彼らは確かに、そびえる巨大な悪、トムヨークが歌い、ハルキムラカミが書くような得体の知れない巨大な、それでいて姿の見えないものに対して、勝利を収めた。半ば強引な方法で。しかし、ここで言う世界とは目の前に在る世界とは同義ではない。現実の中でリズベットはその中ではひたすら搾取され、抑圧されている。ただ彼女もザッカーバーグもそいつらにケツを振らないでいられる場所を知っている。それがネット世界だ。
ネット世界はこれまたひとつの別の世界を形作る道具だ。それはリズベットやザッカーバーグが縦横無尽に空を飛ぶ夢の世界だ。彼らはその中で彼ら自身の物語を構築していく。そしてそれは現実の世界に対して拮抗するほどの力を持つ。ということは、彼らは現実世界でやはり世界に勝利しているとは言えないのだ。世界に真っ向からぶつかれば、やはりリズベットはレイプされるし、ザッカーバーグも裁判で不利な状況に持ち込まれもする。
彼らは決して世界を変えることはできない。ただ、彼らは自分たちの世界を作ることはできる。その中で彼らは勝利を収めることができる。ここにはペシミスティックな感情はない。現実世界に対峙した時に、彼らが屈服することで生きていく以外の方法を見つけるためにそうせざるを得なかったのだ。
彼らは2人とも愛を得られない。愛とは他人との摩擦によってしか、異物との生の接触によってしか生まれないものだ。だから、彼らは自分の世界を作り上げることができたとしても、結局そこには自分しかいないわけで、他者を必要とする「愛」を得ることができないのかもしれない。かといって、他人に対して奉仕するような愛が救済になるとは思えない。結局は人は何かを失うことで何かを得るという『市民ケーン』や『エデンの東』に出てくる古いアメリカンヒーローの哀愁漂う姿が現れる。かつてヘミングウェイはガートルード・スタインに「あなたは失われた世代よ。」といわれた。ヘミングウェイは「どの世代だって何かを失っているのだ。」と反発心を抱いたという。失うことは何かを欠くということではない、それは得ることと同じといってもよいと僕は思う。
デヴィットフィンチャーはこの複雑な世界に対して明確な回答を用意しているわけではない。そこがポイントである。正義と悪、世界と個人、といった二項対立ではもうこの世界を理解することは不可能だ、何が正解で何が間違いなのか、それは多角的に降り注ぐ視線の前に全く意味を成さなくなる。そういった9.11以降の価値観を踏まえている。しかも1950年代のアメリカンヒーローが辿る悲劇的な愛の物語と地続きであることも忘れない。新しいヒーローの姿がおぼろげに、しかし徐々に明瞭さを帯びて見えてこないだろうか。
2012年2月28日火曜日
2012年2月24日金曜日
2012年2月21日火曜日
2012年2月15日水曜日
2012年2月5日日曜日
スカートの中
神聖かまってちゃん、みどり、アーバンギャルド、モーモールルギャバンといったバンドを自然主義派と僕は勝手にくくっている。彼らは自意識過剰であり、ありすぎ、それを乗り越えようとして、まるでプライマルスクリーム療法を試みるジョンレノンのように、あえてグロテスクな意識の底をえぐり出す。血まみれの臓物を差し出すことを、ちんこまんこおしっこうんこを垂れ流すことに全力を尽くす。
3.11以降、日本人は強制的に放射性物質という得体の知れない「汚れ」と付き合って行かなくてはならなくなった。もう日本人は神聖かまってちゃんが汚いなどとは思わないだろう。彼らは依然として「汚れ」ではあるが、マイナスイメージを伴わない「汚れ」た存在である。これは震災後にやっと世間が気づいた認識だ。きたないはきれい、きれいはきたない、現在はまさにこういった価値転換が起こっている最中である。
スカートの中、これはバンドの名前です。こういった新たな風に乗って、彼女たちもきたないはきれいの存在として認められていくだろう、と昨日僕はガールズファクトリーというフジテレビのライヴ番組の会場で思った。フロントがギター2人、ベース1人の計3人で、不器用ながらも1人が叫べば、1人がメロディーを歌い、という感じで不思議にグルーヴがボーカル3人の間をぐるぐる回り始める。歌詞の内容はカレーライスだか人参が嫌いだとか、まる子がキレた、学校は死にたくなる、18階から飛び降りた少女とか、カレシが知らない女とセックスしてるとかもうパラノイアの渦である。でも全然おどろおどろしくはなく、とてもポップであり、トーキングヘッズのデヴィッドバーンのボーカルみたいに変だけどポップであり、またシンプルなコード進行ながらどんどん盛り上がっていく曲もできる。
ギターサウンドが面白く、マイブラッディーヴァレンタインか、裸のラリーズか、のようなディストーションとコーラスとリバーブで作り上げられる豪快なノイズを鳴らせば、ワウペダルも踏んでそうだし、またアークティックモンキーズのソリッドで小刻みなリフもあるし、パワーコードでランナウェイズのような闘争心むき出しのライオットガールに変貌することもある。これは良いギタリストだと思った。
自然主義派といったが、だいたい彼らは計算高く、演奏能力が非常に高いか、抜群のセンスを持っている。スカートの中は演奏はうまいとは言えないけど、このポップセンスは群を抜いていると思いました。
3.11以降、日本人は強制的に放射性物質という得体の知れない「汚れ」と付き合って行かなくてはならなくなった。もう日本人は神聖かまってちゃんが汚いなどとは思わないだろう。彼らは依然として「汚れ」ではあるが、マイナスイメージを伴わない「汚れ」た存在である。これは震災後にやっと世間が気づいた認識だ。きたないはきれい、きれいはきたない、現在はまさにこういった価値転換が起こっている最中である。
スカートの中、これはバンドの名前です。こういった新たな風に乗って、彼女たちもきたないはきれいの存在として認められていくだろう、と昨日僕はガールズファクトリーというフジテレビのライヴ番組の会場で思った。フロントがギター2人、ベース1人の計3人で、不器用ながらも1人が叫べば、1人がメロディーを歌い、という感じで不思議にグルーヴがボーカル3人の間をぐるぐる回り始める。歌詞の内容はカレーライスだか人参が嫌いだとか、まる子がキレた、学校は死にたくなる、18階から飛び降りた少女とか、カレシが知らない女とセックスしてるとかもうパラノイアの渦である。でも全然おどろおどろしくはなく、とてもポップであり、トーキングヘッズのデヴィッドバーンのボーカルみたいに変だけどポップであり、またシンプルなコード進行ながらどんどん盛り上がっていく曲もできる。
ギターサウンドが面白く、マイブラッディーヴァレンタインか、裸のラリーズか、のようなディストーションとコーラスとリバーブで作り上げられる豪快なノイズを鳴らせば、ワウペダルも踏んでそうだし、またアークティックモンキーズのソリッドで小刻みなリフもあるし、パワーコードでランナウェイズのような闘争心むき出しのライオットガールに変貌することもある。これは良いギタリストだと思った。
自然主義派といったが、だいたい彼らは計算高く、演奏能力が非常に高いか、抜群のセンスを持っている。スカートの中は演奏はうまいとは言えないけど、このポップセンスは群を抜いていると思いました。
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